『赤穂義士討入り従軍記「佐藤條右衛門覚書」』と武林唯七

 先日、探し求めていた本を「日本の古本屋」を通して、やっと入手できた。探していた本とは『赤穂義士討入り従軍記「佐藤條右衛門覚書」』(中央義士会出版・初版平成14年、二刷平成25年)である。

赤穂義士討入り従軍記 財団法人 中央義士会発行 平成25年10月31日


この本は古本市場になかなか出回らなかった。仕方がないので、必要な個所は図書館でコピーしていたが、やはり欲しい本は手元に置いておきたいものである。本が届き、改めて最後まで一気呵成に読んだ。

 この本の構成は次のようになっている。

目次

改定版発刊のいきさつ  中島康夫

改定版発刊によせて   浅野長

刊行によせて      長井寛三

刊行によせて      佐藤紘

奇跡のような発見    秋元藍

第一編 

赤穂義士討入り従軍記」鈴木勇

第二編 次のいきさつ  中島康夫

「佐藤一敞覚書」    三扶誠五郎

第三編 発見のいきさつ  中島康夫

浅野内匠頭御家士敵一件」佐藤條右衛門 

第四編 「原書」の解説  中島康夫

 内容から読み取れる新事実

  • 全体的には
  • 十四日暮過ぎより彌兵衛宅へ集まった
  • 兵法の師堀内源左衛門は弟と弟子埼玉某と彌兵衛宅へ来た
  • 津軽越州公の家来大石郷右衛門の動き
  • 自分(條右衛門)は勝手の方で青竹を挽き割っていた
  • 村松喜兵衛は一首を認めて
  • 彌兵衛は戒名を書いていた
  • 討ち入りに遅れた彌兵衛
  • 土地の夜回り、川岸に行く魚屋が通る
  • 泉岳寺の門前は
  • 泉岳寺から仙石邸へ移動

 佐藤條右衛門の出自 宮澤信明

あとがき       中島康夫

参考文献

スタッフ

本誌刊行に係る特別協力者

 

 吉良邸討ち入り前夜から討入り後の赤穂義士の動向を伝えたのが、「佐藤條右衛門覚書」である。この覚書の存在は前から知られていたが、平成14年の発刊で、資料的価値が着目されるようになった。、本書で扱っている「覚書」は、真筆ではなく、新発田市郷土史家三扶誠五郎が真筆から写しとったものである。真筆は未公開になっている。

  討入りを見届けた人は、親類縁者、使用人、医者、家僕、剣術師範、そして堀部安兵衛の従弟佐藤條右衛門などである。佐藤條右衛門が詳細に討入り前後の様子を伝えていて、映画やTVドラマとは違う事実が描かれている。彌兵衛が討入りに遅刻し、佐藤條右衛門に助けられ、門を越えて吉良邸に入ったこと、夜回り、近隣の人々も討入りを知っていたこと、吉良邸から逃げ出した家来の様子、笛が鳴り、吉良が討ち取られたこと、点呼が行われ、吉良邸引き上げが伝わってきたこと、吉良邸の外での義士たちとの会話、挨拶、泉岳寺までの引き上げの様子、泉岳寺前の様子などが書き留められている。

 私が関心を持っている武林唯七も「覚書」に登場している。唯七は剛直の人、不義・不正を憎む人であったと言われる。物置に隠れた吉良上野介に最初の一太刀を浴びせ、絶命させた義士こそが、武林唯七であった。

武林唯七の討入り奮闘場面  戦前発行の絵葉書


 絶命した吉良の首を取ったのは、吉良への一番槍を突いた間十次郎であったが、あまりの功名のパフォーマンスに、唯七は反り返った自分の刀を條右衛門に見せ、「これで吉良を討ち取った。しかし、暗いところであったので、物に打ち当たり、刀が反り返ってしまい、鞘に入り難くなった。このようなことは後になっていろいろいう人も出てくるので、よく聞いておいてくれまいか、と言っていた」と記されている。唯七の吉良を絶命させたという主張は『江赤見聞記』巻四、『忠誠後鑑録』或説上にも見える。討入り前の功の深浅を問わないという定めから外れた間十次郎の態度に、唯七がかなり腹を立てていたことがうかがえる。『忠誠後鑑録』或説上では、「貴殿は、我らが討ち伏した死人の首を取ったが、そのことを無遠慮に言いふらすことは、聞くに堪えない」と怒り声をあげていたとの記述もある。

  唯七と十次郎との功名争いによる確執との見方もあるが、私には、唯七の剛直、直情な性格が表われた事象のように思われる。「覚書」には、「刀の鯉口は二寸許りもぬけて居り、唯七も顔に少々疵を負っていた。堀内(※安兵衛の剣術師範)、埼玉(※堀内の弟子)二人に向かっても何彼と噺しをし、その上これを頼むと言って守袋を渡された」という唯七についての記述もある。

武林唯七の浮世絵葉書 戦前発行

  「覚書」を書き留めた佐藤條右衛門について、第四編の宮澤信明著「佐藤條右衛門の出自」に詳しい。安兵衛の従弟であった條右衛門は義士の切腹後、村上藩間部家に佐藤覚兵衛と改名し、仕官した。間部家の転封先鯖江藩では、町奉行を務めた。享保19年(1734年)の『藩庁日記』には、佐藤覚兵衛の名前があり、当時65歳と推測されている。

 

 神田神保町古書店街と寧波料理

 

神保町古書店街を廻った後、お気に入りの喫茶店でコーヒーを飲み、レストラン・食堂で、昼食を取るのも楽しみの一つである。

この古書店街には、和食、洋食、中華料理(北京・広東・西安・南京・上海・四川・台湾・町中華)、ロシア料理、エスニック料理(タイ、シンガポール、インド)など様々な食文化を体験できる。なかでも老舗の美味しい中華料理店、とりわけ、上海料理店、寧波料理店が目につく。

戦前、神田神保町近辺には明治大学や東亜高等予備学校、清国留学生会館などがあった関係で、中国人留学生が生活し、中華料理店も数多くあった。最盛期には140軒ほどあったという。大正年間、日本へ来た浙江省の温州人は日傘・雑貨品、青田人は青田石の彫石細工を日本各地で売り歩いて生計を立てていた。浙江省寧波からは香港、マカオに移住する人が多く、日本へ向かう数は少なかった。しかし、日本と寧波との交流の歴史は長く、江戸時代に寧波と長崎を結ぶ航路があり、寧波商人が渡日し、長崎の唐人屋敷で商業活動を行っていた。明治の文明開化の時期にも、横浜では洋服仕立ての技術を持った寧波人が早くから洋服店を開業していた。

 神田神保町で寧波出身の顧雲生が浙江料理店「漢陽楼」を開いたのは、1911年のことである。この店には、孫文や同盟会のメンバーが訪れていた。周恩来も神田にあった日本語学校の留学生として過ごしていた頃、同郷の味を求めてよく訪れ、食事をしながら政局談義を語っていた。現在の店主は日本人に代わっているが、伝統の味は引き継がれている。

漢陽楼 靖国通り北側

 

東亜高等予備学校跡 神田神保町 愛全公園内



同じく寧波人が経営する店として、上海料理「新世界菜館」と紹興酒と寧波家庭料理の「咸享酒店」がある。前者は昭和18年、寧波出身の傅寶順が開業、後者は「新世界菜館」二代目傅健興(寧波旅日同郷会理事長)が1992年に姉妹店として開店した。

新世界菜館 神田神保町「新世界ビル」

咸亨酒店 紹興酒と寧波家庭料理の店



この他、明治39年(1906年)創業の「揚子江菜館」がある。この店は、寧波出身の周所橋が開業した。周所橋は「神田中華組合」や「寧波同郷会」などの社団組織を創立し、リーダー的存在であった。

揚子江菜館 神保町すずらん通り


また、昭和21年寧波出身の傅寶順が中国料理「源来軒」を開業し、二代目傅寧興が引き継いだが、2014年惜しまれて閉店した。。1996年(平成8年)に、傅寧興の次男傅登華が靖国通りに寧波料理「源来酒家」を開業し、土鍋の麻婆麺、上海焼きそばなどが美味しく、人気店となっている。

源来酒家と揚子江菜館の名刺

 

源来酒家 靖国通り

なお、寧波出身の鄭余生が明治32年、神保町に開店したのが、かの有名な「維新號」である。魯迅、周作人、周恩来のエッセイや日記にも記され、多くの留学生がこの料理店を利用した。寧波府奉化県出身の蒋介石が離日の時に、この店で送別会が開かれたという。残念ながら「維新號」は昭和22年、銀座に移転した。

このように、寧波人は地縁・血縁・業縁を利用して、神田神保町を中心にして、料理店を増やしていった。本の街神田神保町で、寧波人たちの作る浙江料理の味が現在まで受け継がれ、この街を訪れる人々に郷土の食文化を提供し続けている。

参考文献:

・「チャイナタウン神田神保町」『東京人』2011.11 no.302

・浙江籍海外人士研究 呉潮 学林出版社 2003年

一般財団法人 寧波旅日同郷会 (coocan.jp)

周恩来『十九歳の東京日記』小学館文庫 1999年

軍事郵便と戦争記録画

 

 戦前、日本の画家の多くが戦争、戦地、兵士などを記録するため、それぞれ自己の画風を活かした戦争記録画を描いている。これらの絵は、戦前、戦後発刊された美術図鑑や画集に収めれている。それ以外に、実は、戦前発行された軍事郵便絵葉書に多数印刷され、流布していた。

鶴田吾郎と鈴木良三の作品

 郵便愛好家たちは、日付、野戦郵便局印、宛先・差出部隊名、検閲印などに関心を持っている。また、戦争の歴史を留めるために、書かれた内容に着目して、分析している歴史研究者もいる。戦地から兵士たちがどのような内容の文面を書いたのか、検閲を擦り抜けて、どこまで心情を吐露しているのかなどに関心を持っている。

 私も120枚ほど軍事郵便葉書を所有(90%が北支派遣部隊より日本へ)しているが、絵と写真に興味を持って、戦争画家たちの絵を中心に収集した。亡父が所属した連隊関連の軍事郵便やハルビン、ジャムス、大連、新京、奉天、北京、上海などの写真が載った軍事葉書も収集対象にした。

 葉書絵の画家は藤田嗣治、鶴田吾郎、横山大観宮本三郎、小早川秋聲、岩田専太郎鈴木良三、向井潤吉、内田正男、三上知治、古島松之助、吉田初三郎、西原良蔵、高田正二郎、安田豊中村直人、川島理一郎、小倉静三、高橋亮、辻永などである。なかでも、小早川秋聲の絵が好きで、絵葉書を10枚ほど集めている。

小早川秋聲の作品


小早川秋聲の「國之楯」(1944年)は、陸軍省の要請で描いたが、受け取りを拒否された作品で、現在は京都の霊山歴史館が展示している。日の丸に覆われた軍人の遺体を描いた作品で、非常にインパクトがある。もちろん、この作品は絵葉書には採用されていない。

 軍事郵便は戦地の軍人と日本を結びつける貴重な郵便制度であった。

宛先であるが、派遣先の北支の所属部隊から、家族(父母、妻子、兄弟姉妹)、親戚、友人、恩師、職場の上司・同僚、知人、職場などに送られている。

私が収集した軍事郵便の内容は、入営・出征にあたっての御礼と挨拶、年賀状、暑中見舞、近況報告、返信などである。検閲があるので、軍務内容や場所などは書かかれていない。

軍事郵便の文面 カタカナは子ども宛

一番多い近況報告では

・家族、親戚、知人への感謝の言葉

・派遣先で、元気に軍務に精励、奉公

・家族の健康、子供の成長 兄弟姉妹仲良く

・日本の故郷 山川 四季 正月 お祭り

・中国の自然環境、厳しい寒さ、黄砂、乾燥、長雨

・中国の旧正月 市場 

・故郷を懐かしむ「ふるさとの お祭り饅頭 夢で喰らい」という句もあった。

・一枚だけあったビルマからの軍事郵便は、派遣先のビルマの雨季、カエル、小鳥、猿の啼き声、飛び交う蛍などを記述。

また、次の一枚の北支からの軍事郵便だけが詩に託して、疲れた身体を休めながらも夜襲に備える様子が書かれていた。

 

 稀に夜襲のなき宵は 破壁出る月赤く

 汗馬を洗う水もなし 星が移れば故郷の

 哀愁浮ぶ折柄に   塹壕掠める銃声に

 すは敵襲と戦友が  呵呵と笑いて銃をとる

  

 軍事郵便の差出人の兵士たちのその後の消息は知る由もないが、読みながら無事を祈る気持ちになった。

戦争記録画 古島松之助と向井潤吉

 

マレーシアのカカオ園と駝鈴の文学世界

 マレーシアといえば、かつてはゴム園が至る所にあったが、現在はゴムの樹に変わってどこに行ってもパームオイル樹(油ヤシ)が栽培されている。

マレー半島のパームオイル


パームオイル樹などの陰で、混合栽培されているのがカカオである。カカオはコートジボワールやガーナのアフリカ産や中南米産が主流であるが、マレー半島や東マレーシアのサバ州でも生産量は少ないが、栽培されている。マレーシアのカカオは高品質で、商品的価値が高いため、小規模農家や農園主が商品作物として栽培している。毎年、一部の農場で収穫されたカカオが最短で二か月後にはチョコレートになって、東京のデパートの店頭に並んでいる。アフリカ・中南米産カカオはヨーロッパに輸送され、加工されるので、一般に店頭に並ぶには二、三年かかると言われる。

ここで、紹介する文学作品は、マレー半島の内陸部の小さな農村のカカオ園が舞台になっている。

さて、マレーシアの華文文学作家駝鈴は、私の尊敬する作家の一人である。私が初めて駝鈴氏とお目にかかったのは、クアラルンプールで開催された「学術研討会」の席上であった。1980年代、友人の華文作家伍良之氏は、私の研究を助けるため、マレーシアで出版されている書籍を定期的に送付してくれていた。ある日、伍良之氏から送られてきた書籍の中に十二冊ワンセットの叢書『松柏書系』があった。その中にあったのが、駝鈴著『カカオ園の黄昏』という作品集であった。作品のタイトルに引かれ、読み始めると、すぐにマレーシア農村の色彩が色濃く反映された駝鈴の文学世界に引き込まれてしまった。過去から現在に至るまで、馬華文壇では現地の色彩を反映した作品の創作が呼びかけられ、これを受けて若手の作家たちもマレーシアの色彩を反映した小説を発表していた。しかしながら、私はこれらの作品を読み終えて、なにか物足りなさを感じていた。この原因は、たぶん駝鈴の作品の影響を強く受けていたことに起因すると思われる。この短編小説は日本語に翻訳されたので、中国文学や台湾文学とは異なる東南アジアの華文文学に関心を持った読者も少なからず増えた。

駝鈴著 『カカオ園の黄昏』1985年

駝鈴の短編小説を読み、読者は日常生活の平凡な事件や普通の人物形象を通して、社会の現実を理解し、さらに社会の本質を認識することができたと思う。

駝鈴はマレー人の多い農村で生まれ育ったので、農村生活、マレー人、インド人の風俗習慣、生活実態について精通していた。駝鈴は各民族の生き生きとした形象をリアルに描いていた。彼は文字、格調題材の面で現地の特色を描き、各民族の垣根を取り払おうとした。「カカオ園の黄昏」という作品の主題は、華人とマレー人の間の婚姻問題と民族関係、民族を超えた家族の愛情についてである。マレー人と結婚した娘を許せない頑迷な父親、カカオ園で懸命に働く娘婿の死、残された孫の成長を通して、次第に気持ちを氷解させ、自己の誤りを認めていく父親の心情の変化を見事に描き出している。読者は民族関係の難しさを感じると同時に、将来に一筋の光明を見出している。私は作家駝鈴の説得性のある描写の技巧に感心した。短編小説「カカオ園の黄昏」は彼の作品の中で最も成功した短編作品であるといえよう。

  作家駝鈴の経歴は下記の通りである。

本名は彭龍飛、祖籍は福建晋江。1936年、ペラ州の農村で生まれる。小学校の教師を長年務める。1954年から創作活動、ペラ文芸研究会を組織。文芸誌『清流』を出版。マレーシア華文作家協会主席、アジア華文文学賞受賞。主要な作品として、『吉打的人家』『可可園的黄昏』『家福』『駝鈴文集』『硝煙散尽時』『愛己深沈』など。マレー語文学の翻訳作品として『旋毛児』『馬来短編集』などがある。

昭和へのノスタルジー

 

 昭和時代について、世代によって異なる思いがあることは明らかである。昭和22年から昭和24年にかけての世代は「団塊の世代」と呼ばれ、高齢者人口が最も高い世代である。昭和を懐かしむ街、横丁の再現、資料館、記念館などが日本各地に作られていった。現在では全国数十カ所に分布している。その中で、東京九段南には昭和10年~昭和30年頃までの戦中・戦後の国民の苦労した体験を知るために設置された「昭和館」がある。ここには収集した展示物、文献資料、映像資料などがそろっている。昭和へのノスタルジーというより、国民の苦労した経験を伝える国立の博物館である。

愛知県知立市歴史民俗資料館の企画展パンフレット

 昭和へのノスタルジーを感じ、体験したい方は、下記のレトロの施設、ミュージアムなどを訪問することをお勧めする。

昭和の街並みを再現した大分県豊後高田市の「豊後高田昭和の町」が、年間40万人の観光客が訪れる観光地として知られている。過疎化した市、衰退した商店街を活性化するために肌で体感できる「昭和」を再興したのである。参加している店舗は60軒、これに5のレトロミュージアムが設置されている。昭和の魅力に溢れる町である。

 大分県が遠いと思う方は、岐阜県高山市の高山昭和館と飛騨高山レトロミュージアムがある。高山市は小京都と呼ばれ、前者は館内に昭和30年代の街並みが再現され、展示物も多く、昭和を体感できる。後者も前者よりも狭いが、同じく昭和を体感できる。埼玉県川越市にある「菓子屋横丁」は20数軒の駄菓子屋が下町の駄菓子への郷愁を誘っている。また、川越には江戸時代の面影を残した蔵造(耐火建築)の町並みが残り、観光客を集めている。東京の葛飾柴又の「寅さん記念館」&「山田洋次ミュージアム」も寅さん映画の世界だけでなく寅さんが放浪した昭和の時代に浸ることができる。

 いずれにしても、日本各地に作られた昭和をテーマにした施設で、当時の看板、雑貨、おもちゃ、凧、メンコ、駄菓子、レコード、ポスター、文具、制服、まんが本、少年少女雑誌、TVヒーロー、生活用品、電化製品などを見たり、触ったり、読んだりして、過ぎし昭和を懐かしむことができる。

鶴岡雅義とトリオ・ロス・カバジェロス ポリドールレコードLP

  現在、少なくない市町村に「歴史民俗資料館」が設置され、郷土の歴史資料の収集、保存、が行われ、「昭和」に関する企画展示も随所で開催されている。

 私の手元に残された昭和20年代、30年代の資料としては、写真、母子手帳、卒業証書、学級委員任命書、通信簿、数枚のレコード、少年ケニアのハガキ、TVドラマ『怪傑ハリマオ』(昭和34年放映)の凧だけである。

怪傑ハリマオと拳銃少年太郎が描かれた凧

 

シンガポール華僑中学の記念メダル

  連休を利用して書斎の片づけをしていると、本の隙間に一枚の記念メダルがあった。表には「新加坡華僑中学」の創設者陳嘉庚(タン・カーキー)の肖像が刻印されおり、このメダルは創立75年を記念して作られたものであった。

創立75周年の記念メダル(表) 1994年

創立75周年の記念メダル(裏) 1994年



どこで入手したものかと思い出してみると、それは私がシンガポールで調査旅行をしている時に、お世話になった潘明智先生からいただいたものであった。知り合ったころは、潘明智先生はシンガポール宗郷会館聯合総会雑誌『源』の編集の仕事をされていた。当時、彼の執務室は福建会館の中にあった。潘明智先生は南洋大学で地理学を専攻し、その後日本の東京教育大学大学院で地理学を学んだ。帰国後は南洋大学地理学専攻の助手、小学校の教員、「華僑中学」の校長を歴任した。

  この「華僑中学」はシンガポールの大華僑(ゴム園で蓄財)陳嘉庚によって、1919年に創立された初の華文中学校であった。陳嘉庚は愛国華僑と呼ばれ、故郷福建省の教育事業に多大な資金を提供し、抗日運動にも参加したことで知られている。

   潘明智先生は親切で気さくな性格の先生であった。シンガポールのチャイナタウンに精通し、生き字引のような存在で、日本のTV番組にも出演し、チャイナタウンの食文化について、解説をしていたことがあった。潘明智先生はシンガポール華人会館の歴史についての論考や日本の学術論文の翻訳などを多数発表され、著作も公刊されている。代表的な編著書に『華人社会与宗郷会館』がある。定かではないが、マレー半島東海岸出身で、マレー語も堪能であった記憶がある。

華人社会与宗郷会館 1996年

 

マレーシアの華文中学を訪ねて

 マレーシアは東南アジアの中で、最も華語教育が維持されている国である。マレーシアの公教育では国民型華文小学校で、華人の子どもたちは華語で授業を受けることができる。卒業後も華語教育を継続するには、独立華文中学と呼ばれる私立中学(高校も含む)へ進学することになる。独立華文中学は華語文化の存続、発展を目的とする一方、他の民族の言語文化を教育し、文化の交流融合を深め、全民族の特徴を反映したマレーシア文化の創造を教育目標にしている。独立華文中学は、全国で61校ある。

華文独立中学の分布図 

私が訪問した学校は、そのうちの十数校である。それぞれ学校の歴史、現況を聞き取り、その後校舎・寮見学、授業参観または在学生たちとの交流などを行った。

クアラルンプールにある中華独立中学 大規模校で生徒数5,098人(2021年統計)

 ペナンの韓江中学には三度訪問したことがある。最初に訪問した時の校長はマレーシアを代表する華文作家方北方氏であった。知り合いとなった後は、資料収集、研究などで大変お世話になり、手紙での交流も続いた。

 最も印象深い独立中学はマレー半島東海岸ケランタン州コタバルにあるケランタン中華独立中学であった。東海岸は西海岸と違って、マレー人が圧倒的に多く、華人は極少数派であり、マレー語ができないと生活できないし、就職・進学に不利である。この地域に華語の私立中学が存在、維持されていることに驚きであった。学校はコタバル市内から西北へ21km離れた場所にあり、完成されたばかりの新キャンパスを訪問できた。梁育堅校長への聞き取りや在学生たちとの座談会はとても有益で、マレー人多数派の東海岸で生活する華人の子どもたちの生活や言語環境、華語と華人文化の継承などについて、意見を交換することができた。

 クランタンに三泊したあと、車で南下し、クアラトレンガヌ、クアンタンに、それぞれ一泊し、ジョホールを経て、シンガポールに戻った。途中、華文小学校を見つけると、飛び込みで訪問し、校長先生から学校の現況について、説明を受けたりした。東海岸の澄んだ海の青さはいまでも鮮明に記憶に残っている。

なお、クアラトレンガヌは、戦前マレーの虎と呼ばれたハリマオが育った街である。