最近読んだ南洋群島に関する二冊の本

 オンライン書店の「日本の古本屋」で「南洋」を検索すると、なんと4,613件の在庫が確認された。南洋に関する書籍などが売り出されている。絵葉書、写真帖、雑誌、年鑑、統計書、風俗慣習、文化・宗教、地理、教育、資源、原住民族、南洋群島の発展概況、農業、水産、林業、鉱物、熱帯気候、熱帯植物、華僑、南洋紀行などに関する様々な資料の存在を知ることができる。出版元は南洋庁、南洋協会、南洋経済研究所、南洋文化協会、一般の出版社などであるが、南洋経済研究所からの出版・発行が最も多い。

 私が読みたい書籍はどれも各出品本屋が値段を高く設定しているので、なかなか掘り出し物にはあたらない。そこで、某オークションで値段も割安な書籍を二点入手した。

一冊目は「サイパン会誌 心の故郷サイパン 第二号」(全486頁、平成六年四月発行、サイパン会)という会誌である。

サイパン会誌 第二号 平成六年 サイパン会発行

サイパンを含めた南洋群島移住者のなかではとりわけ沖縄県出身者が多かった。サイパン島から沖縄県に帰還した人たちが組織したのがサイパン会である。会誌第二号の構成は、サイパン会本部編の目次が「発刊にあたって、祝辞、会則、会員役員名簿、初期移民の足跡 大正七年から昭和三年まで、南洋興発に関する資料、太平洋は波静か、サイパン帰りのシマンチュ」となっている。「初期移民の足跡」は沖縄から開拓移民として、森林を切り開き、サトウキビ栽培を成功させた苦難の歴史が写真、具体的な家族構成、入植後の状況などで語られている。入植後の状況は貴重な証言といえる。入植者の多くは森林の開拓、サトウキビ栽培、製糖工場などに従事している。サイパンでの製糖事業の発展と成功には、沖縄県人が原動力となったことは言うまでもない。

 本部編の後は、チャランカ町編、南村編、東村編、泉村編、北村編、ガラパン町編となり、それぞれ各町村で暮らした移住者の思い出、追憶、写真、紀行文などが掲載されている。東村編に、私の関心のあるコーヒー栽培に関する記事を見つけた。タッパウチョウ山(431m)でコーヒー栽培をしている四家族が記されていた。隣接する南村チャランダンダンでも四家族がコーヒー栽培をしていた。

サイパン会誌第二号 p329


会誌のコーヒー栽培の記述は、これ以外に「タッパウチョウ山裾野周辺第二、第三段丘中腹部の雑木林地域傾斜地では、コーヒー、パパイヤ、タピオカ、バナナ、綿花等の特産作物を栽培している自作農の県人の方々も多数居り、・・・」(会誌p346)とのみ記されている。

サイパン島のコーヒー 

二冊目の本は『南洋と松江春次』(能仲文夫 時代社 昭和16年11月 全534頁)である。製糖業を通して、南洋群島の開発と発展に貢献した松江春次の軌跡を論じた本である。 

南洋と松江春次 時代社 昭和16年 能仲文夫著

       

 以下、目次の表題を書き記す。「南洋と日本、戊辰の役、貧しき松江一家、米国留学時代、日本で最初の角砂糖、工業界の恩人手島校長、台湾の糖業、新高製糖時代、南洋群島開拓に着目、南洋調査に向かふ、白人と南洋群島、南洋開拓失敗史、苦難の調査時代、南洋興発の誕生、南洋開拓に乗り込む、飢餓移民の歓喜、晴れの工場落成式,俄然精糖は大失敗、南洋放棄論の抬頭、資金欠乏に直面、糖業遂に成功、南洋開拓第二期、白人の植民統治、熱帯開発と日本人、南方開拓に凱歌、南方魚田の開拓、群島開拓は進む、外南洋進出の機会、世界の謎の島、原始土人の生活、松江の御前講、セレベスに進出、アラフラ海に進出、葡領チモール、海南島の開発へ、松江の南方経綸、人間松江春次、松江をかく観る、南洋の解放へ、松江春次年賦表」。この表題だけでも、旧会津藩士の次男であった松江春次が事業家として幾多の困難を乗り越え、成功を勝ち取っていく軌跡を追うことができる。

松江春次は会津中学から苦学して東京工業学校へ進学した。卒業後は日本精糖に就職し、農商務省奨学金を得て、アメリカのルイジアナ大学に留学し、砂糖科を優秀な成績で卒業した。そして、アメリカのスプレックルス製糖会社で職工として働くが、一年で技師に昇格し、砂糖の研究に取り組んだ。欧州を経て帰国後、日糖で日本最初の角砂糖の製造に成功した。その後、台湾にある製糖会社に転職し、台湾の製糖業の発展に貢献したが、南洋でのビジネスチャンスを求め、サイパン島に調査にでかけた。サイパン島では経済恐慌の影響で倒産した製糖会社の千人の従業員が困窮に陥っていた。松江春次はこれらの従業員を救済し、サイパンでの製糖業を展開するために、南洋興発株式会社を設立し、南洋群島の開発に乗り出した。資金難、害虫駆除などの難題を解決し、サイパン島での製糖業を成功させ、南洋興発に関連する従業員、その家族を含めて五万人の入植者を受け入れた。松江春次は街づくり、教育機関の設置、病院、文化施設の建設などにも力を入れた。また、母校東京工業大学(5万圓)、故郷の会津工業学校(30数万圓)に対して、多額の寄付を行っている。

松江春次はサイパンだけでなく、ロタ、テニアンでのサトウキビ栽培・製糖、パラオでの水産、ペリリューでの燐鉱などの開拓事業を推し進めた。松江春次は外南洋のニューギニア(ダマール樹脂採取、ジュート栽培、綿花栽培)、セレベス(椰子園、コプラ)、葡領チモール(コーヒー園、カカオ園)、アラフラ海(真珠貝採取・加工)への事業進出を拡大した。

南洋興発及関係会社事業一覧 『南洋と松江春次』より

松江春次の事業拡大と果敢なチャレンジ精神はアメリカ軍のサイパン占領、そして日本の敗戦によって、すべて消え去った。しかしながら、松江春次の歩んだ道を通して、卓越したビジネス経営、チャレンジ精神、忍耐力は依然として学ぶところが多々ある。「砂糖王」と呼ばれた松江春次の銅像昭和8年6月に作られ、彼の南洋群島の開発に対する多大な貢献を顕彰した。現在もサイパン島の中心街ガラパン地区にある「シュガーキングパーク(砂糖王公園)」に銅像は立っている。

この本の著者である能仲文夫の経歴が詳しくわからないが、『北蝦夷秘聞 樺太アイヌの足跡(北進堂書店 昭和八年)『南洋紀行 赤道を背にして』(中央情報社 昭和九年)などを出版している。本著の記述では南洋研究を十年ほど行い、本著の調査・執筆には一年半を費やしたという。

本書の序文で、能仲文夫は執筆の動機について「私が最初南洋の研究に手を染めた頃、非常に感激したことは、松江春次氏の南洋開拓に拂つたその努力である。そこで、私は機会があつたら、それを纒めて南洋植民地の開拓が、如何に血の滲むやうな努力が拂はれたかを世の多くの人たちに知らせたかったのだ」「近世日本が生んだ植民地開拓者としての代表的人物は『松江春次』だといつても、決してそれは誇張した言葉ではないと思う。所詮今日の南進論もかかる開拓者が、その基礎を築いたればこそである。本書が次の時代を背負つて立つ若い人々に一つの示唆を與へることが出来るならば、私の目的もそれで達しられるわけである」と述べている。

日米開戦前夜ということで、伏字が多数見られ、群島開発の現状についての言及もなく、p433~p442が削除されている。本書は1941年に書かれた松江春次の一代記であるので、当然、戦中・戦後(1941~1954)の松江春次が描かれていない。会津若松市のHPに掲載されている「あいづ人物伝」には次の記述がある。

「大戦の戦火が広がる昭和18年、春次は67歳で会社の経営を下りています。間もなくサイパンは占領され、敗戦で財産をほとんど失いました。晩年は『生来無一物』と大書し、サイパンへの郷愁を抱きながら、酒を酌み交わすことが楽しみでした。昭和29年(1954)に78歳で永眠しました」

 今回は入手できなかったが、2005年、地元出身の郷土史家(?)塩谷七重郎 が歴史春秋社から『松江春次伝』を出版していた。絶版だが再版されるようである。再版を楽しみにしている。