シンガポール・マレーシアの友人たち

 人生を振り返ると、楽しいこと、辛いこと、感動したことなど、さまざまな出来事が思い出される。今回は、20代後半から情熱をもって始めた東南アジアの華人社会の研究や現地調査について、少し触れてみたいと思う。

私がこの分野に興味を持ったきっかけは、1970年代中頃、東京の代々木駅近くにあった東豊書店(2019年に閉店)で手に取った『新馬華文文学学大系』(全10巻、世界書局)との出会いであった。この本に触れ、著者の方修氏に会うために、私は熱帯の都市国家シンガポールを初めて訪れた。

 その後、日本からシンガポールやマレーシアの華人作家たちと手紙でコンタクトを取り、文献資料を集め、研究を進めた。この過程で、著名な作家や研究者たちと出会うことができた。例えば、方修、潘明智、王潤華、楊松年、欧清池、徐本欽、林万菁、伍良之、方北方、駝鈴、沈慕羽、年紅、甄供、呉岸などが挙げられる。

マレーシアを代表する詩人呉岸の著作『旅者』

これらの方々は、1980年代後半に私がシンガポール・マレーシアを中心とする華人社会の現地調査を本格的に始めた際に、大変お世話になった。当時は、手紙という古典的な手段で知り合い、交流を重ねることで人的ネットワークを築いていった。中華世界においては、人的ネットワークが大きければ大きいほど良いとされているが、そのネットワークを維持するためには努力が必要である。彼らを通じて、現地の華人社会の指導者、作家、研究者、華字新聞の記者、華語教育団体の指導者、政治家、宗郷会館(地縁・血縁組織)の関係者ななどを紹介してもらい、華文学校(独立中学)への訪問、資料収集、アンケート調査、聞き取り調査などがスムーズに運び、そのおかげでいくつかの研究成果に結びついた。

 この間に出会った華人の作家、教育者、研究者は数百人にも上り、シンガポールやマレーシアのジョホール、ムアール、マラッカ、クァラルンプール、イポー、ペナン、コタバル、クチンなどに点在している。なかでも、クァラルンプールで作家活動と文芸誌の発行を続けている梁冠中氏は私の最初の友人として特別な存在である。梁氏は伍良之、易冠、蒼波客などの筆名で、散文・評論・紀行文など数多くの著書を発表されている。彼は開放的で面倒見が良く、信義に厚い人物である。食通でもあり、梁氏には美味しいレストランや屋台に連れて行ってもらい、クァラルンプールの食文化を堪能しました。ある時、郊外のゴム園の中にあるレストランで食事をした。そのレストランはサル、リスなどの料理の他に、海鮮料理などがメニューにあった。もちろん、海鮮料理を選んだことは言うまでもない。ゴム園の中のレストランなので、やたら蚊が多かった。立ち込める蚊取り線香の煙の中で、エビやカニを美味しく食べたことを今でも記憶している。

マレーシアの散文作家伍良之の著作

 現在、私は自宅に所蔵されている華文文学、華文教育、華人社会に関する様々な書籍や雑誌、作家たちの手紙のファイルを眺めるたびに、現地での調査活動や知り合った多くの華人の友人のことを思い出す。これらの貴重な記憶や書籍は私にとって、今日と明日への糧となっている、

梁冠中(伍良之)氏編集発行の文芸誌 第68期(2023,2)まで発行されている

 

山東省の芸術家について

 山東省には五回ほど訪れたことがある。旅の楽しみは現地の美味しい料理を味わうことと文化に触れることである。山東省の省都、済南には、山東省高唐県出身で現代中国を代表する画家李苦禅の紀念館がある。その紀念館は市内西龍街にある元代の伝統的建築の「万竹園」の中にある。庭園には竹林、花園、名泉、亭、橋などがある。李苦禅紀念館の展示室には、花鳥画が多く展示されていた。巨大な蓮の花、鷹、魚、蘭竹、白菜などである。白菜の絵に「世間の人は美味を知るだけで、ありふれた白菜の持つ意味をよく知らない。清貧の中から優れた人物が生まれるのであり、温室育ちの子弟に才徳の人は少ない」(大意)と一文が添えられていた。李苦禅は美術学校で絵画を学びながら、夜は人力車の車夫として働いていた。

  

李苦禅紀念館蔵画選 育雛図 1987年 

 さて、筆者は30代中頃、山東省で多くの芸術家や作品に出合うことができた。今回は二人の画家の作品を紹介したい。まず一人目は当時、山東師範大学芸術学部教授の張鶴雲氏である。張鶴雲氏は鯉、金魚の絵を得意としていて、海外での評価も高い画家であった。私も友人のM氏の尽力で、やっと手に入れることができた。

張鶴雲 鯉

もう一人は当時、山東芸術学院講師であった高延軍氏である。高延軍氏は歴史上の人物を描くことが得意で、日本でも個展を開催したことがある。私は「曹操観蒼海」と「孟子廟」を手に入れた。「孟子廟」は、私が懇願して、描いていただいた作品であり、拙宅の居間に飾っている。

高延軍 曹操観蒼海

素晴らしい作品には、やはり心を豊かにしてくれる力がある。もし山東省に行かなかったら、これら優れた画家や作品に出会うことがなかっただろう。

栗原信『六人の報道小隊』(陸軍美術協会刊 昭和17年 )について

 本書は戦後GHQによって指定され、没収、廃棄された書である。いわゆるGHQ焚書本である。戦後初期、廃棄されたタイトルの本は7,000冊以上あったと言われる。幸い、本書は図書館や個人の蔵書として辛うじて残った。私の所有する本は、古本屋で入手したものである。

宮本三郎画伯 装丁画

 作者の栗原信は戦前、二科会で活躍した洋画家で、昭和14年陸軍美術協会に所属して、戦地に赴き、戦争記録画を制作した。『六人の報道小隊』はマレー半島攻略作戦に報道班の一員として、栗原が従軍した時に、書き留めた作品である。六人の報道員とは、栗原信(画家)、里村欣三(作家)、堺誠一郎(作家)、石井幸之助(カメラマン)、長屋(新聞記者)、松本(新聞記者)である。六人の報道小隊であるが、出発日の前日に加わった長屋、松本二人の報道員は姓のみ書かれ、長屋は地方記者、松本は音楽をこなす新聞記者と紹介されているだけである。

 栗原は部隊の戦況や進撃、守備の様子や里村、堺、石井各報道員の行動を軽妙な筆致で記録しており、本書の目次は、六人の報道小隊、ジョホールへ、スクダイ高地、総攻撃の前夜、シンガポール島総攻撃、ゴム林を征く、ブキテマ高地、激戦の陰に、英軍降伏となっている。破竹の勢いで、英軍を追って南下した日本軍がシンガポールの対岸ジョホールまで辿り着き、シンガポールを死守しようとする英軍との戦いを活写している。本書には栗原のスケッチした絵が、12枚付属している。街の風景、椰子林、海岸、集落、市街地などが描かれている。また、本書の装丁は宮本三郎画伯が担当しており、報道班員の石井カメラマンの報道写真も掲載されている。

詩人金子光晴も滞在したバトバハの風景 栗原信画

 興味深いのは、栗原が元プロレタリア作家の里村や中央公論社出身の作家の堺をどのように観察していたのかという点だ。二人の性格は丸で反対だが、純情で、実行性に富んでいるところが、面白い対象をなして一致していると述べ、里村については、こう語っている。

 「彼はいつも突発的に直情的に行って了ふのが癖だが、決して悔いたことも、効果を楽んだこともない。或る宗教には関心を持ってゐるが、戒律には好きなとこだけしか必要がない様である。寧ろ彼の尤もらしいものは酒を吞み乍ら、のべつ論じられる社会批評人生批判なのである。」

 一方、堺については、こう述べている。

「堺はその反対に言葉は〇〇用に相応しいと言はれる程、優しく好き透ってゐるが、最後は容易に曲げない意志的な無気味さ一国さがある。彼は満州の軍隊生活から得た諦観を持ってゐて、惨めな自分の姿を、冷やかに凝視してゐる習慣がある。」

 里村と堺は考えの違いがあっても互いに尊敬しあう仲で、二十年にわたって親友関係を維持していた。シンガポールに半年滞在した後、二人は報道班員として、ボルネオ島に渡り、報道記録を書き続け、里村は名著『河の民』(有光社、1943)、堺は『キナバルの民』(有光社、1943)を上梓している。人跡未踏の北ボルネオの大河キナバタンガンを船で遡り、自然、動物、河の周辺で暮らす原住民族(ムルット族、ドゥスン族)の生活などを愛情溢れる筆致で描き出している。

二冊の北ボルネオ紀行 中公文庫


もし、機会があれば、これら二冊をぜひ一読していただきたい。現在、中央公論から出版されている。なお、栗原の戦争記録画(アメリカ合衆国 無期限貸与)は東京国立近代美術館に三点所蔵されている。

・「湘江補給戦に於ける青紅幇の協力」(1942)
・「怒江作戦」(1944)
・「ジョホール渡過を指揮する山下軍指令官(ジョホール王宮)」(1944)

 

 

幕末の長州藩お抱え石工武林唯昌について

 江戸時代の儒学者室鳩巣の『鳩巣小説』の「武林家家譜」に、長州毛利家に仕える武林兵助が登場するが、萩藩分限帳、萩藩閥閲録、譜録にも武林家の記載がない。また、唯七が幕府に提出した親類書にも武林兵助の記述はない。

 文筆家の李家正文氏(李家元宥の子孫)は幕末の萩藩御用石工武林唯昌が萩武林家の末裔と信じている。唯七の祖父孟二官(武林治庵)と萩武林家は果たして縁戚関係があるのか、筆者は関心を持っている。

 幕末期、武林唯昌は防府天満宮大宰府天満宮北野天満宮狛犬(萩狛犬)を製作したことで名を知られている。京都の北野天満宮の第二鳥居の左右に武林唯昌の制作した萩狛犬がある。

武林唯昌制作の萩狛犬


そのの台座には確かに「長州萩石匠師 武林孟唯昌」の名前が刻まれている。狛犬の寄進は文久二年(1862年)である。

狛犬の台座に武林唯昌の名前が刻まれている 

李家正文氏は次のように語っている。

「この石屋の武林家には、近くの満行寺筋に渡辺という親類もあった。伯父や父は、城に近い老萩町平安古の江向に面した邸で生まれた。それで昔のことをよく知っていて、中学生の私にいろいろなことを語ってくれた。その一つに、武林家も、明治維新で、士族の商法の石屋になっているが、実は赤穂四十七士のひとり武林唯七の子孫であると。」(李家正文『歴史と文学の間』桜楓社 1982年 p174) また、宮本哲治氏(萩出身)は「毛利家と武林唯七とは何の因縁であろうか。現在、萩市平安古字石屋町に、唯七の子孫武林治朗氏が住んでいる」(宮本哲治『古文書による赤穂義臣伝』科学書院 1988.12  p5)と記していた。李家氏、宮本氏もはっきりとした史料に依拠して、述べているわけではない。

また、石屋町の「徳富道行橋のそばには萩藩お抱え石工であった武林家の古い立派な屋敷が、その名残を今に伝えている」(『市報はぎ』1997.7.15)と市報に掲載されていた。1987年当時、萩市内にはその石工の子孫武林家が居住していたことは確かである。その他、「長州奇兵隊士名鑑」には武林隣平、武林次郎の親子の名があり、中間の身分のようである。武林唯昌とは如何なる関係だろうか。長州の武林家末裔についての調査は、残念ながらここまでである。

 コロナ禍で萩への調査旅行が中断されていたが、機会を見て萩を訪問して、石工武林唯昌や武林兵助について調査する予定である。

赤穂義士武林唯七の刀について 

 前回に引き続き、赤穂義士武林唯七についての話しをしていきたい。

 武林唯七が討ち入り時に使った刀は越前刀工の藤原重高(二代目)の作という。刀の茎には重高の銘のほか、「元禄十五年壬午(みづのえうま)歳五月吉日、浅野長矩家臣、武林唯七隆重三十二歳」とあり、刃長は二尺五寸一分であった。(『新刀押象集下巻』鹿島勲・内田疎天著 昭和十年刊)

鹿島勲・内田疎天『新刀押象集上・下巻』大阪刀剣会 昭和10年 p429

赤穂義士が討ち入り時に使ったとされる佩刀については、広島浅野本家に伝わる『義士佩刀覚書』や『泉岳寺記』が知られているが、大方が創作されていて、その信用度はかなり低い。義士たちの愛刀は三百年余の歴史の中で、持ち主が転々とし、その所在が不明のものが多い。武林唯七の口承、伝承の刀は6振りあるが、どれもが確証があるわけではない。[i]先述した唯七の銘が切られた藤原重高(二代目)の刀が今のところ有力な唯七の刀と考えて良い。[ii] ただ、この刀の所在は、現在では所蔵先が不明である。

さて、武林唯七の墓は、東京の泉岳寺と赤穂の花岳寺にある。これ以外に、福井県福井市瑞源寺(臨済宗妙心寺派)近くの法興寺(浄土宗西山禅林寺派)が管理する小山谷墓地に唯七の墓がある。瑞源寺は越前松平家菩提寺のひとつである。唯七の墓がなぜ福井市の小山谷墓地にあるかは不明である。この墓を小山谷墓地で発見した郷土の写真家故八木源二郎氏の写真・説明によると、分銅型らしき家紋の下に「武林唯七」(高さ約40㎝)とあるだけで、側面には建立者名、建立年月日などは無いようである。

武林唯七は近習で江戸勤番。事件以後、江戸急進派の中心的人物堀部安兵衛を畏敬し、早期討ち入りに賛同していた。安兵衛の義父弥兵衛の妻は越前松平家家老本多孫太郎長員の江戸屋敷(吉良邸北隣東側)の次席留守居役忠見政常の妹であり、安兵衛切腹後の堀部家は忠見家次男言真(文五郎)が養子となり、継いでいる。討ち入り当日も言真が吉良邸前まで弥兵衛に随伴していた。吉良邸の絵図面も忠見家から安兵衛が手に入れたといわれる。義士切腹後、堀部言真は熊本細川家に召し抱えられている。また、三男友四郎は若狭小浜藩家臣大嶋(島)家の養子となっている。[iii] 唯七は安兵衛・弥兵衛を通して、忠見家や堀部言真と関係を持ち、その縁で藤原重高(二代目)に作刀を依頼した可能性もある。唯七の墓を建てたのは堀部言真ではなく、越前の刀鍛冶藤原重高(二代目)ではないかと推測する。唯七が討ち入り前に調達した刀が越前の刀鍛冶藤原重高(二代目)とするならば、藤原重高(二代目)または重高縁者が唯七の霊を弔うため墓を作った可能性の方が高い。なお、脇差は同じく越前関兼植〔せき かねたね〕の作といわれる。浪人中の唯七が重高(二代目)に作刀を依頼できるかという素朴な疑問もあるが、重高(二代目)の刀は当時それほど高価な刀ではなく、唯七もお金を工面すれば何とか手に届く刀であった。重高(二代目)は、越前だけてなく、江戸においても作刀していたといわれる。現在でも重高(二代目)の刀は50~20万円ぐらいで取引されている。江戸時代でも高価な刀ではなかった。

戦前の刀工で、刀剣に造詣が深く、刀剣に関する多くの著書を発表している成瀬関次は次のように述べている。

「この國清と同じ越前関に重高というのがある。赤穂義士の一人、竹林唯七が仇討ち当夜佩用した二尺五寸一分、播磨大掾藤原重高はその二代目で、当時はあまり認められなかった安価な刀であった。
 しかも、物打ちに刃こぼれを研いだあとがあり、あまり上作でなかったこの刀を揮って、上野介の嫡子義周を斬り、次いで須藤與一左衛門を討ち、最後に吉良上野介を斬ったのである。唯七の脇差しはやはり越前関兼植〔かねたね〕の作であった。この刀は、寛永が初代で、越前國住兼植と銘に切る」

(成瀬関次著『実戦刀譚』 実業之日本社 昭和16年刊)

尚、打刃物の産地武生は刀鍛冶を多く輩出し、先述した越前松平家付家老本多孫太郎長員の知行地(2万石)であり、堀部家の親戚である忠見家が刀工重高と関係があっても不思議なことではない。播州赤穂出身の唯七が越前の刀工が鍛えた刀と脇差を帯刀していた由縁が推測できる。

堀部安兵衛の従弟で無二の親友佐藤條右衛門の『討入り従軍記』には、討ち入りの後、唯七が曲がった自分の刀を條右衛門に見せ、「これで吉良を打ち取った。しかし、暗いところであったので、物に打ち当たり、刀が反り返ってしまい、鞘に入らなくなった。このこと覚えておいていただきたい」と当時の様子をアピールしていたと記されている。唯七の吉良を絶命させたというアピールは『江赤見聞記』巻四、『忠誠後鑑録』或説上にも見える。重高(二代目)の刀は唯七の吉良方との激しい切り結びに大いに役立ったといえる。重高(二代目)にとっても義挙で自分の刀が使われたことは大きな誇りであったと思う。[iv]

さて、先述した安兵衛の従弟で無二の親友佐藤條右衛門(実家は越後新発田藩小須戸組大庄屋)は討ち入り当日の夜から討ち入り終了後の吉良邸退去、泉岳寺への引き上げまでの様子について実況記録を残している。この記録が明らかになったのは、今から18年前のことである。浪人であった佐藤條右衛門は事件後、越後村上藩(間部家)に仕官し、間部家の鯖江転封に従い、越前鯖江藩に勤める。記録では佐藤覚兵衛と名を改め、徒士頭、町奉行を務め、享保19年(1734年)の鯖江藩『藩庁日記』にその名がみえる。尚、佐藤家の子孫は今日まで続いている。

参考文献

・鹿島勲・内田疎天『新刀押象集上・下巻』大阪刀剣会 昭和10年

・読売新聞福井支局『福井の意外史」昭和52年6月

・八木源二郎『福井カメラ風土記 上・下』品川書店 昭和54年

福永酔剣赤穂義士の刀」『日本刀物語』雄山閣 昭和63年

・成瀬関次著『実戦刀譚』 実業之日本社 昭和16年

・「忠臣蔵の”従軍記”発見」読売新聞(江東版) 2002.11.9

・冨沢信明『討入り従軍記:佐藤條右衛門覚書』中央義士会 2012.7

・冨沢信明「堀部安兵衛の刎頚之友・佐藤條右衛門の出自について」『中央義士会会報』64号 平成24年12月

 

[i] 昭和の時代に真偽は兎も角、唯七の刀と称されたもの(脇差は除く)には、次の六振りの刀がある。①赤穂大石神社所有②唯七の銘入りの刀(藤原重高二代目作)③細川藩士鎌田軍之助(細川家預かり17名義士引取役)の子孫鎌田景象氏所有兼光二代、二尺四寸六分。(昭和16年)④山口県下関市在住小林重威氏所有天正祐定、二尺一八分。⑤町田市立自由民権資料館特別展「大坂事件」(1998.10.9~11.28)にて大矢正夫氏所有の唯七の刀が展示。⑥泉岳寺展示品(戦前は参拝記念絵葉書に載せられていたが、現在の義士記念館所蔵目録には不掲載なので、所有者から借りて展示したものと考えられる。銘は越前国康継、一尺九寸) なお、『義士佩刀覚書』には、唯七が討ち入り時に使用した刀は廣國二尺とあるが、その確証は全くない。

[ii] 福永酔剣氏はこの刀に切られている文字に、二つの疑問を挙げている。唯七の年齢は37歳であり、32歳は間違いとしている。この疑問は他の多くの史料に基づけば明らかに間違いであり、唯七は32歳である。もう一つの疑問として刀に切された「浅野家家臣武林唯七」という文字である。福永酔剣氏は、討ち入り前に浅野家家臣を使うことは不用心としている。この理由で、唯七の刀ではないとすることには無理がある。直情型の唯七は近習として主君長矩に仕え、何よりも浅野家家臣であることを誇りとしているので、信頼のおける刀工にこの銘の文字を依頼することは疑問に思うようなことではないと考える。                  

[iii] 忠見家は長男宗助が継ぎ、次男文五郎は堀部家を継ぎ、三男友四郎は若狭小浜藩酒井家臣大嶋家の養子となっている。忠見家の弥兵衛・安兵衛の遺品は三兄弟が形見分けしている。2012年12月18日放送の「なんでも鑑定団」では小浜在住の大嶋家の子孫が保管する安兵衛の文五郎宛の自筆の書状、安兵衛の義母宛の書状(写し)、弥兵衛自筆の遺訓の草稿が鑑定出品され、話題になった。鑑定額は安兵衛の自筆書状が500万円、三点で950万円であった。

[iv] 唯七は討ち入り時に、大小の刀と槍で武装していたといわれる。『赤城士話』によると大身槍、『江赤見聞記』によると十文字槍とある。しかし、『預置候金銀受払帳』の記載では唯七は討ち入り用に「長刀(なぎなた)を一両で購入し、受取証が残っている。ともかく、討ち入り時に使用したと言われる唯七の槍は、福井県坂井市三国町の滝谷寺(真言宗智山派)に現存している。伝承では長府毛利家から南部藩に伝わり、南部藩から三国滝谷寺の檀家であった船問屋竹内次郎五郎が拝領し、それを滝谷寺に寄進したという。

 

 

 

 

浮世絵に描かれた赤穂義士武林唯七(国芳・国周・芳虎)

武林唯七は討入急進派として知られた赤穂義士のひとりである。祖父孟二官(武林治庵、渡辺治庵)は寛永年間に明国浙江省杭州から渡日した。武林唯七は孟二官の次男の家系で、長男の家系は現在まで子々孫々つながっている。

唯七の討入時の活躍については、江戸時代に書かれた多くの書物で伝えられている。ここでは、江戸時代の浮世絵に描かれた雄姿をお見せしたい。いずれも筆者が入手した浮世絵である。

一枚目は歌川国芳(うたがわくによし)作の『誠忠義士伝』竹林唯七隆重である。歌川国芳(1798-1861)は江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、歌川豊国の弟子で、「武者絵の国芳」として知られていた。

歌川国芳の浮世絵 竹林唯七

もう一枚は幕末・明治期に活躍した浮世絵師豊原国周(1835-1900)の『義士討入図』武林唯七である。豊原国周(とよはらくにちか)は役者絵を得意とし、「役者絵の国周」として評価が高い浮世絵師である。

豊原国周 武林唯七

 三枚目は歌川芳虎の『義士四拾七人之内』竹林定七隆重像である。芳虎は幕末から明治中期にかけて活躍した絵師である。歌川国芳の門人であったが、後に破門されている。武者絵を得意とし、美人画、横浜絵、開化絵、西南戦争を描いた錦絵など多数の作品を描いている。

歌川芳虎の竹林定七像

四枚目は同じく歌川芳虎の『忠臣義士銘々伝 竹林貞七孟隆重』である。

歌川芳虎の竹林貞七

この他、歌川国貞(1786-1865)『誠忠義士伝 武林唯七隆重 市川市蔵』、月岡芳年(1839-1892)『誠忠義士銘々画伝 武林唯七孟隆重』などの浮世絵がある。月岡芳年歌川国芳の弟子で、国芳の「武者絵」を継承している。また、最後の浮世絵師とも言われる。

青春映画の思い出断章 ‐日活映画を中心に-

 私の趣味のひとつに映画鑑賞、ドラマ鑑賞がある。若い頃には、時代劇、西部劇、冒険映画、戦争映画、社会派映画、文芸映画など数多くの作品を鑑賞した。映画館で見た青春映画はそんなに多くはなかった。その中で、吉永小百合・浜田光男の『愛と死をみつめて』が、今でも一番印象に残っている。中年を過ぎてから、急に青春映画を見たくなり、中古のVHSビデオやDVDを手に入れて、青春時代に戻り、若者たちが困難を乗り越え、明るく前向き生きる姿を見た。青春映画には友情、恋愛、助け合い、生きる喜び、切ない別れ、悲しみなどが描かれていた。そこで、改めてこの時代の若者たちに共感を覚えた。それは良き時代であった。今では、日活の青春映画は、AmazonのPrime Videoで、かなりの作品を視聴できる。

若草物語』スチル写真 神田の古書店で購入 

さて、今日はこの青春映画について、少し語ろうと思う。

1960年代は青春映画全盛期である。この時期は同時に、経済の高度成長、東京オリンピックの開催、技術革新、高速道路や地下鉄の拡大、高層ビル建設などが行われ、上り坂の時代の真っただ中にあった。日活を中心に東映大映東宝、松竹などの各映画会社は競って青春映画の作品を制作した。青春映画のなかで青春歌謡曲とタイアップする形で制作されたものが、青春歌謡映画と呼ばれた。歌手が映画に主演し、映画俳優もまた歌い手として、一世を風靡したのである。当時、御三家と呼ばれた橋幸夫舟木一夫西郷輝彦出演の映画が作られ、この後三田明が加わった。青春映画の相手役の女優には、日活では吉永小百合和泉雅子松原智恵子、西尾三枝子、伊藤るり子、十朱幸代などがあげられる。他の映画会社の相手役女優として、東映は本間千代子、大映は高田美和、松竹は尾崎奈々、東宝は内藤洋子などがいた。青春映画には、日活では相手役男優として浜田光夫山内賢を中心に、高橋英樹、渡哲也、和田浩二、石坂浩二杉良太郎などが加わつた。

青春映画のなかで、純愛路線を営業の柱としたのは日活である。日活はアクション映画(男優:石原裕次郎小林旭赤木圭一郎宍戸錠二谷英明 女優:浅丘ルリ子、笹森礼子)を中心に、文芸映画、社会派映画、戦争映画などを制作していたが、文芸映画に代って、純愛映画を柱として 60年代前半、多くの青春映画を世に送り出した。1964年公開された『愛と死をみつめて』は、日活歴代映画作品のなかで、最高の興行成績を収めた。吉永小百合の全盛期は60年代前半までで、彼女は歌手としても多くのヒット曲を生み出している。なお、『愛と死をみつめて』は2006年、TV朝日で草彅剛広末涼子のコンビでリメイクされ、放送された。この作品でヒロインを演じた広末涼子の演技はかなり良かった。ただ、1960年代の街並みの雰囲気は画面からは感じられなかった。

舟木一夫は日活映画には1963年制作の『学園広場』から始まり、1969年までに16作品出演した。なかでも主演した悲恋映画三部作『絶唱』(1966)、『夕笛』(1967)、『残雪』(1968)は多くの観客の涙を誘った。出演した各映画の主題曲や挿入曲もまた次々とヒットした。好きな映画は『北国の街』、『高原のお嬢さん』、『残雪』、『青春の鐘』であり、相手役女優は和泉雅子松原智恵子である1969年に制作された『青春の鐘』を最後に日活での青春歌謡映画はほぼ終了した。因みに、西郷輝彦は日活映画には7作出演している。なかでも、純愛と友情そして親子の愛情を描いた『涙になりたい』(1966年、森永健次郎監督、相手役女優松原智恵子)は、感動を呼ぶ作品に仕上がっている。

東京オリンピックが開催された1964年以降、日本の高成長は翳りをみせ始め、しだいに成長の鈍化・安定路線へと移行していった。この時期もっとも青春スターとして活躍したのが、先ほど触れた吉永小百合である。吉永小百合の演ずる「強くて明るくて開放的な女性」は、まさに戦後復興のシンボルであった。1965年以降、復興期が必要とした女性像、若者像、青春像はその使命を終えつつあった。

この時期、日本映画は斜陽産業となり、テレビがそれに代っていく時代でもあった。映画のキャスト、スタッフたちも主な活動の場をテレビの世界へと移していった。1971年11月、日活はロマンポルノ路線に転換し、「日活」は大きく変貌した。1971年12月には、経営悪化に陥っていた大映が倒産した。

日活の青春映画の監督には、斎藤武市西河克己、森永健次郎、柳瀬観中平康西村昭五郎松尾昭典などがいた。なかでも、柳瀬観舟木一夫が主演した『北国の街』『東京は恋する』『高原のお嬢さん』の作品を監督している。

この他、『キューポラのある街』の監督であつた浦山桐朗もその一人であり、社会派監督としても知られていた。彼の作品『非行少女』(和泉雅子主演)はモスクワ国際映画祭で銀賞を受賞し、和泉雅子の演技力も高く評価された。

なお、2012年9月10日、日活は会社創立 l00年を迎えた。

そして、映画ではなく、実際に会えたスターとしては、舟木一夫杉良太郎が挙げられる。舟木一夫はコンサートで、歌声や舞台の演技を楽しむ観客として、杉良太郎とはとある地方都市のアーケード街にあるレコード店の前で、新曲(映画『花の特攻隊』主題曲)のキャンペーンをしている杉良太郎と間近に会えた経験がある。彼は当時から歌もうまく、スター性のある俳優であった。

 以下の参考文献は神田の古書店、通販サイト「日本の古本屋」などで収集した。

参考文献

・『西河克己映画修行』 西河克己 ワイズ出版 1993

・『純愛の精神史-昭和三十年代の青春を読む‐』 藤井淑禎 新潮社 1994

・『御三家の黄金時代』 藤井淑禎 平凡社新書 2000

・『昭和が明るかった頃』 関川夏央 文春文庫 2004

・『こころの日記』 吉永小百合 講談社 1969

・『夢一途 』吉永小百合 日本図書センター  2000

・『吉永小百合の映画』 片岡義男 東京書籍  2004

・『小百合ちゃん』   中平まみ 講談社   2011

・『舟木一夫の青春賛歌』 大倉明 産経新聞出版 2012

・『青春 浜田光夫』 浜田光夫  展望社   2012

・『愛と死をみつめて』 大島みち子・河野実 大和書房 1964

・『愛と死をみつめて 終章』 河野実   大和書房 2005