南洋移民とハリマオ その実像と虚像
江戸幕府の初期に行われた朱印船貿易はベトナム、タイ、フィリピンとの交易が中心であったが、マラヤ半島にあったマラッカ王国との交易も少ないが行われていた。日本人町については確認されていない。
明治に入り、外南洋であった東南アジアにも日本人の移民が行われた。シンガポールを含めたマラヤ各地にも日本人が働きに出かけていった。移民の形態としては、小売・行商の商業移民、農業移民、漁業移民、サービス業移民が多く、やがて商社、ゴム園経営、鉄鉱業ビジネス、海運、銀行など大手資本が経済活動を展開した。
マラヤ半島の東海岸はマレー人が人口の多数を占めていたが、この他、華僑、インド人も暮らしていた。ここに日本人も移民として移植した。今回の話題となるハリマオとして知られている谷豊は、1912年福岡県から家族でシンガポールを経由して、東海岸の街クアラ・トレンガヌに移り住んだ。トレンガヌ州は当時人口約18万人、華僑、マレー人、インド人がそれぞれ住みわけ、マレー人が多数派を占めていた。クアラ・トレンガヌの華僑街の端に三十人ほどの日本人が暮らしていた居住区があった。谷家は家族で理髪店とクリーニング店を経営した。この他、日本人の経営する薬局、歯科医院、洋服屋、写真屋、雑貨店などもあった。満州事件以降、マラヤでも華僑の反日行動高まり、日貨排斥運動や日本人や親日華僑商人への襲撃事件が起こった。クアラ・トレンガヌの日本人商店も襲われ、その中に谷理髪店もあり、家にいた末の妹が惨殺されてしまった。日本でこの悲報を聞いた豊は、妹の仇討ちのためにマラヤへ舞い戻っていった。これ以降、親との連絡を絶った豊は回教徒となり、モハマド・アリ・ビン・アブドーラと名乗り、華僑、イギリス人の金持ちを襲う盗賊団(30~50名)の首領となった。仲間からはハリマオ(虎)と呼ばれていた。賞金をかけられ、お尋ね者となったハリマオはマラヤ・タイ領国境近くの村に潜伏していた。このハリマオに着目したのがバンコク駐在武官の田村浩大佐であり、マラヤ進出を想定して「ハリマオ」工作を準備していた。ハリマオがイスラム教徒であり、マレー語も堪能で、現地の地理に通じ、人脈もあることに着目して、活用しょうとした。藤原少佐率いるF機関がハリマオの説得にあたった。ハリマオの説得に大きな力を果たしたのが、*神本利夫機関員であった。ハリマオは神本を信頼し、日本の南進作戦に協力した。ハリマオは南進する日本軍の先導的役割を果たし、ペラク川のダム確保作戦で活躍した功績があった。ジャングルを走破したハリマオはマラリヤに罹り、1942.3.17、シンガポールの病院で病死した。享年30歳。マレー人の仲間に見送られて病院近くのイスラム墓地へ埋葬された。参謀本部は軍属谷豊の死を記者会見で発表し、すでに帰国していた家族は、音信不通であった豊の消息を知ることになった。
亡くなった後、マスコミの寵児となった豊はハリマオとして英雄伝説化の中で名前を記憶されるようになった。イギリス植民地、悪徳華僑と戦う日本青年とマレー人青年の活躍が織り込まれ、最後はマレー半島攻略作戦に協力し、お国のために尽くして病死する英雄像が描かれるようになった。
ハリマオの虚像について、簡単にまとめてみる。
- 忠君愛国青年、親孝行 ← 盗賊の名誉挽回 日本人の強調
- 部下三千人→対英闘争、南進に協力
マレー戦線で大活躍→病死→悲劇のヒーロー←イメージの拡大→英雄伝説←メディアの誇張
これには報道機関の果たした役割も大きい。ハリマオの死亡後、新聞、雑誌、劇画、紙芝居、浪曲、歌謡曲などで、その忠君愛国の英雄像が拡大され、映画『マライの虎』までが作られた。
ハリマオの実像はどうであったか。
- マレーの文化と日本の文化を持った青年像→回教徒でマレー語が日本語より堪能。
- 盗賊団の首領部下30~50名ぐらい。マレー人を中心にインド人、タイ人、華僑などで構成。
- 家族思い、義侠心、マレー人の信望⇔忠君愛国青年とはズレがある。
- F機関の南進工作に協力、日本軍のマレー半島攻略の先導者となる。
- 作戦には部下とともに協力、信義を貫く。日本軍進行の先駆けの役割。諜報と宣撫に従事。華々しい武功があったわけではない。
F機関の指導者藤原少佐は谷豊に対する思い入れが強く、感謝の意味でハリマオ像を美談仕立てで誇張したことは確かである。一方、藤原少佐は入院している豊を見舞い、豊を軍属(通訳官)としたことを伝えた。また残された家族に遺族年金、叙勲の手配までした。
戦後、ハリマオは忘れられた存在であったが、昭和30年代にテレビ・マンガのヒーローとしてのハリマオが復活した。
1)第一次ブーム(昭和30年代)
テレビが普及しだし、日本商品の海外での評価が高まり、経済成長の中で、ブームが起きた。日本経済新聞夕刊(1955~1957)に少年小説「魔の城」(山田克朗)が連載された。テレビでは少年向けのヒーローを登場させた作品が次々と作られ、少年たちを引き付けた。なかでも『快傑ハリマオ』(昭和35年~36年、全5部65話製作)は「魔の城」を原作としてドラマ化された。この作品の最初の舞台は、戦争前のジャワ島。現地の人々のために、占領軍、悪徳商人、秘密結社と闘う日本人を描いた。ハリマオの正体は海軍武官府の海軍中尉大友道夫という設定であった。5シリーズ制作されたが、第4シリーズの南蒙古を除いて、東南アジアが主な舞台であった。現在では全作品がDVD化されて、鑑賞することができる。
漫画では石ノ森章太郎が『快傑ハリマオ』を少年マガジンに連載(昭和35年~36年)した。また、堀江卓も『少年ハリマオ」(全5冊 少年クラブ 昭和35年)を出版した。
2)第二次ブーム(1980年代)
80年代に入り、ハリマオ像の再考、実像を求める動きがでた。小説、新聞、雑誌、ノンフィクション作品、映画などで新しいハリマオが登場した。
1.『ハリマオ』(角川書店) 伴野 朗 1982年
朝日新聞の外報部記者。推理作家として「ハリマオ」を冒険活劇小説にリメイクした。
豊富な現地取材、調査、現代史を踏まえて創作され、小説の時代背景の正確さや人物像の鮮明さが特徴である。
・「なぜか人気『ハリマオ』(1985 .4.11)
・「捜しあてたあの『ハリマオ』がいた町」(1988 .6.13)
3.『マレーの虎 ハリマオ伝説』(新潮社 1988年 中野不二男 ノンフィクション作家)
谷豊の実像を追うために家族、民間人、F機関の旧軍人への聞き取り調査を行った。
- 帰国子女としての谷豊②アイデンティとは何か→日本人論③F機関の持つ意味 ④日本軍の戦略論・情報戦の欠如⑤南洋の民族、言語、地理などの研究、理解不足などを論じた。この本で中野氏は英雄でもなく、悲劇の主人公でもなく、ふたつの文化を生きた人物として、谷豊像を描き出している。
「だが、日本のその時代は、豊の生き方を根底から否定した。日本人ならば・・という言葉は、彼の価値観を揺るがし、アイデンティティをもくつがえそうとしていた。その、ただひとことで。そして、豊は ″日本人″になった。海外に住む日本人として厳しい生き方を求めた父浦吉とはべつの意昧で、日本人以上に日本人になった。いや、なろうとしたのである。この瞬間こそ、″ハリマオ″が生まれ、伝説がはじまっていたのだ。豊は開戦の12月8日からシンガポールで息をひきとる翌年3月17日までの99日間、″日本人″として全力で生きぬいた。時代につきつけられた要求に、かれが見せた一瞬の証明だった。証明が終わり、すべてが終わったとき、かれはふたたび自分の文化へともどっていった。しかし、″ハリマオ″は、すでにひとり歩きをはじめていたのだ。」(中野不二男)
戦前の映画「マライの虎」、TV「快傑ハリマオ」を基に、中野不二男氏の著書を参考にリメイクしている。実像と虚像を都合よくつなぎあわせたため、制作者の意図が空回りし、作品としての評価はあまり高くなかった。伴野朗氏の小説を映画化したほうが成功したかと思う。
3)2000年代のハリマオ伝説
2000年代になって、ハリマオ伝説は最終章を迎えることになった。産経新聞は「日本人の足跡 谷豊」(2001年5月15~20日) という記事を連載した。ハリマオが亡くなって六十年の節目に、ハリマオ伝説の完結版として、静岡大学の山本節教授の著書『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』が出版(大修館書店 2002年)され、NHKBSでも映像として放映された。山本教授(2011年逝去)は「英雄神話伝承」の研究者で、10年間にわたり、実に多くのハリマオ関係者や現地を訪問し、中野不二男氏とは異なる視点で研究を進め、ハリマオの実像にさらに近づいた。聞き取りした内外の関係者の多くは、すでに鬼籍に入り、これが最後の調査であったといえる。山本氏の真摯な研究姿勢と研究成果に敬服するばかりである。
山本氏は本書の中で次のようにまとめている。
「認識は彼我の関係を離れてはあり得ない。くさぐさの資料が語るハリマオの姿とは、実はハリマオと接した人々が、自己との関わりの中で、それぞれの内なる価値や審美の鏡に照らしつつ醸成した、その人その人の「ハリマオ伝承」なのではあるまいか。真実とは、各自が抱く幻の中にしか存在し得ない。つまり筆者が集積した「ハリマオの真実」とは、いわば百人百様の「ハリマオの幻想」なのだ。 ハリマオ神話を脱し、その実像の追求を志した伝承研究者の探索の果てが、新たなハリマオ神話への逢着であったという、皮肉な逆説がここにある」(山本 2002)
追記
*神本利夫機関員について
ハリマオへの説得工作を行ったF機関の神本利夫の生涯とハリマオとの関係については、土生良樹氏の『神本利夫とマレーのハリマオ』(展転社 1996)が参考になる。
尖閣諸島を理解するために- 手元にある資料の紹介-
尖閣諸島を学ぶためには、以下の資料が役に立つ。これらは、私の手元にある資料であり、数は多くないがネット資料も含めて、尖閣諸島を理解するための工具になる。
尖閣諸島に詳しい写真家の山本皓一氏は次のように述べている。「もし尖閣諸島が大事と考えるのであれば、中国を論破することだけを考えて過去を知ろうとする姿勢は、あまりお勧めできない。そのような方向に走らずとも、尖閣諸島の日本人が残してきた、他国に恥じることのなき堂々とした歴史を知ることは、十分に可能である」(下線は筆者)
尖閣諸島の開拓は1980年代に古賀辰四郎(1856-1918)によって行われた。古賀は福岡県八女出身で、沖縄県で海産物を扱う古賀商店を開いた。1884年、尖閣諸島にアホウドリ調査のための探検隊を送り、翌年アホウドリの羽毛を採取。1895年、古賀は尖閣諸島の久場島に上陸。1896年、明治政府から魚釣島、久場島、南小島、北小島の四島を三十年間無償で借り受けた。羽毛・夜光貝の採取と販売で大きな利益をあげたが、アホウドリの減少を知って、次のビジネス展開のために、1900年、古賀は昆虫学者の宮島幹之助、博物学者の黒岩恒に尖閣諸島の調査を行わせた。その報告が「地学雑誌」に発表された「尖閣列島探険記事」(黒岩恒,1900)、「沖縄縣下無人嶋探檢談」(宮島幹之助,1900)である。宮島、黒岩は「鳥類・魚類の乱獲防止、移住者のための家屋建設、水源のない久場島での雨水貯水槽の設置、船着き場の整備、道路整備および排泄物の排除方法確立や衛生設備の設置」を進言した。(「1984年古賀辰四郎による尖閣諸島の開拓」島嶼資料センター)古賀はこの進言を受け、魚釣島の整備を行うための見取り図(事業所建物配置図)を作成し、整備を推し進めた。古賀は尖閣諸島で、夜光貝の採取(高級ボタンとして使用)、海鳥の捕獲(羽毛の採取・剥製)、鳥糞採取(肥料)、鰹漁・鰹節製造など様々な事業を展開した。海鳥が減少すると、鰹漁・鰹節製造がメインの事業となった。移民総数は最盛期で、248名・99戸に及んだ。古賀村は魚釣島、南小島、久場島に作られた。1918年、古賀が亡くなると、息子善次が事業を継いだ。親子二代、私財を投じ尖閣諸島の開発維持に努力した。しかし、大正元年(1912)に尖閣諸島を襲った台風によって、古賀村は大きな被害を受け、古賀は尖閣諸島の古賀村の再建をあきらめた。これ以降、古賀は一年契約の漁師を尖閣諸島に派遣していた。大正7、8年(1918,1919年)ごろは漁業期には69人の漁民が魚釣島に滞在して漁労をしていたとの記録がある。1939年5月、農林省資源調査団が尖閣諸島を調査。団員の正木任が調査報告書「尖閣群島を探る」(『採集と飼育第3巻第4号1941.4)を発表。魚釣島の北北西岸の平地にビロウ(蒲葵の葉脈)採取のため、53名の労働者が与那国島から来ていたとの記述がある。仮小屋を建て生活していたようである。1943年9月、藤原中央気象台長、尖閣測候所建設計画のために、内川測候所技手・大和順一測候所長を派遣して魚釣島の調査を行った。翌年、尖閣測候所は戦局の悪化によって、中断されてしまった。冒険者、漁業者、研究者たちの尖閣諸島開拓への夢と挑戦、足跡を知ることは、「堂々とした歴史」を学ぶことに通じる。
戦後、所有者は古賀家に代わって、埼玉県の実業家栗原國起が尖閣諸島を引き継いだ。栗原家は「財団法人古賀協会」を創立した。
明・清時代の冊封使の資料を学ぶ
原田禹雄氏が冊封琉球使録の訳注を11冊刊行している。尖閣列島とその周辺の記述がある陳侃と趙新の資料が極めて参考になる。原田氏の解説書(2006.)もわかり易い。
・原田禹雄 尖閣諸島 冊封琉球使録を読む 榕樹書林 2006.1
・原田禹雄訳注 陳侃 使琉球録 榕樹書林 1995.6
・原田禹雄訳注 趙新 續琉球國志略 榕樹書林 2009.6
尖閣諸島の開拓の歴史を学ぶ
・平岡昭利 アホウドリを追った日本人 –一攫千金の夢と南洋進出-- 岩波新書 2015.3
・古賀辰四郎氏による尖閣諸島の開拓(1884年~) | 情報ライブラリ | 笹川平和財団| 島嶼資料センター- THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION (spf.org)
尖閣諸島の調査資料
・尖閣研究 高良学術調査団資料集 尖閣諸島文献資料編纂会 上・下 2007.10
2007年10月刊。上下2巻セット函入り。大型本B5版ソフトカバー帯付き。(上)386頁・(下)390頁。1950―68年にわたる尖閣諸島総合学術調査集成。米国信託統治の沖縄で、高良鉄夫博士(元琉球大学学長)率いる調査団は第1~5次にわたり 尖閣諸島の生物相・資源や歴史を総合的に調査した。「明治30~40年代の黒岩恒氏や宮島幹之助氏・恒藤規隆博士、昭和10年代の正木任氏による優れた調査があったが、いずれも単発的・個別的調査の域をでなかった。…明治43年黒岩氏が “此列島には未だ一括せる名称なく地理学上不便少からさるを以て…尖閣列島なる名称”を提唱以来広く使われていたが、1972年復帰以降から今日では“尖閣列島”の名称が一般的となっている。…今後尖閣領土問題は一段と厳しさを増してくるものと思われる。尖閣列島に関わる様々な事実については正しい認識がますます必要となる。」(発刊の辞)
・尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告 2009年 尖閣諸島文献資料編纂会2010.8
尖閣諸島の周辺海域は水産資源が豊富で、かつては多くの漁業者が出漁し、さまざまな漁業が営まれていた。しかし近年は中国や台湾とのトラブルなどのため、出漁する漁業者はほとんどいない状況である。本書は2009年度、2012年度、14年度の3回行われた尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告集である。3冊総計1200ページにもなる大冊で、楽に通読できるものではないが、一番の注目点は多数の海人から話を聞き取り、それを記録したことである。琉球新報2016年06月05日
・尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告 2012年 尖閣諸島文献資料編纂会2013.9
「本調査は、尖閣諸島に出漁された沖縄県の漁業者に対する聞き取り調査である。
周知のように、尖閣諸島海域の漁業に関する資料が少なく、同島海域における漁業の実態、その全容は詳らかでない。しかも海域へ出漁する漁船は、現在は僅かである。
かつては尖閣諸島海域へ多くの漁船が出漁し、様々な漁業が営まれてきた。
深海一本釣りのマチ漁から、カツオ釣り、突き船でのカジキ獲り、果ては追込みによるダツ漁、等々である。その中には、ダツ追込みや突き船でのカジキ突きとか、今は漁法が絶えたものもある。また深海一本釣にしても、イシマチャー(石巻落し漁)からヤマギタ方式を経て、現在の一本釣型になったという。これも今回の調査で明らかになった。」
・尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告 2014年 尖閣諸島文献資料編纂会2015.9
この3回に亘る調査報告は、わが国の尖閣諸島海域の漁業の開発利用の実態を示し、こと国際的問題が生じた場合、日本の尖閣諸島に対する実効支配を証左する重要な資料になるものと確信する。 (尖閣諸島文献資料編纂会の日本財団への報告書より)
・調査|尖閣諸島ホームページ (tokyo.lg.jp) 東京都総務局
都は平成24年9月2日に尖閣諸島の現地調査を実施しました。 調査で記録した写真や動画により、豊かな自然環境にありながらも、ヤギの食害等による土砂崩壊や漂着物の散乱など環境の悪化が懸念されるといった、尖閣諸島の現状を紹介します。(HPより)
・内閣官房 領土・主権対策企画調整室 (cas.go.jp)
・尾崎重義 尖閣諸島の国際法上の地位--主としてその歴史的側面について--筑波法政18号 1995.3 *是非とも読んで欲しい。お勧めの論文です。
Home | 笹川平和財団| 島嶼資料センター- THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION (spf.org)
創刊号(2013.7.1)~第13巻1号(2023.12.27)出版 島嶼資料センター発行
海洋政策研究所島嶼資料センターでは、日本の島嶼に関する問題について正しく理解するための定期刊行物『島嶼研究ジャーナル』を発行しています。『島嶼研究ジャーナル』は、資料に基づく専門家の学術的な論文を集めた「論説」、国際会議等の国際社会の場で議論された日本の島嶼に関わる問題情報を紹介する「インサイト」、島嶼に関わる問題を理解するための読み物「コラム」の3コンテンツから構成され、島嶼に関する問題の本質を斯界の専門家によりわかりやすく解説しています。(島嶼資料センターHPより)
日本の研究者の尖閣研究
・沖縄大学地域研究所編 尖閣諸島と沖縄 芙蓉書房出版 2013.6
・斎藤道彦 尖閣問題総論 創英社/三省堂書店 2014.3 全頁473
・いしゐ のぞむ 尖閣反駁マニュアル百題 集広舎 2014.6 全頁413
・いしゐ のぞむ 尖閣釣魚列島漢文資料 長崎純心大学比較文化研究所 2014.3
一般の尖閣関連の本
・山本皓一 日本人がもっと好きになる尖閣諸島10の物語 宝島社 2013.10
写真家の山本皓一氏が、尖閣諸島を舞台にした遭難事件を丹念な調査を基に語っている。1940年、古賀家が魚釣島での事業から撤退した後の魚釣島と遭難民との関わりが述べられている。
[日本人が知らない尖閣諸島秘史。孤島に生きた先人たちの誇り高き生き様と冒険心が初めて発掘される。「魚釣島」を日本の領土と認めた「感謝状」をめぐる逸話。中国漁船を助けた石垣島民の勇気。封印された戦時中の航空機墜落事故。] (AMAZON解説より)
・門田隆将 尖閣1945 新潮社 2023/11/15
1945年に起きた台湾石垣島疎開船の悲劇について、長期の取材を基に明らかにしている。多くの人が知るためには、この事件を活字だけでなく、映像化もして後世に残してほしい。
(AMAZON解説より)
[「命」を救ったのは「真水」をたたえた日本の領土だった――。
知られざる「尖閣戦時遭難事件」の史実が“中国の噓”にトドメを刺す
事件から「78年」という気の遠くなるような歳月の末に緻密な取材で浮かび上がった苦悩と感動の物語。なぜ「尖閣列島」は日本の領土なのか。そのことを示す、ある遭難事件。中国はなぜこの事件に触れられないのか。]
・誰も見たことがない日本の領土 尖閣・竹島・北方四島 付DVD 別冊宝島 宝島社 2011.3.12 *山本皓一氏が撮影した貴重な写真と記事が多数ある。
・中名生正昭 激動する日本周辺の海 尖閣、竹島、北方四島 南雲堂 2011.2
展示館・資料館で学ぶ尖閣諸島
・領土・主権展示館 (cas.go.jp) 東京都千代田区霞が関3−8−1 虎ノ門ダイビルイースト1階
・石垣市尖閣諸島デジタル資料館 - (senkaku-islands.jp)
絶海の孤島・尖閣諸島は古賀氏による事業撤退以降、その遠隔性や荒い波に拒まれ、上陸調査は困難を極めましたが、琉球大学をはじめとする調査団により、精力的な調査・研究が実施され、その自然や環境の一端が明らかにされてきました。ここではこれまでに実施された学術調査と、その中で確認された非常に珍しい植物、動物の一部を紹介します。(デジタル資料館HPより)
・石垣市尖閣諸島情報発信センター/石垣市 (city.ishigaki.okinawa.jp)
参考資料
・尖閣諸島について 外務省
・人民日報 1953.1.8 *国会図書館でコピー
資料「琉球群島人民反対美國占領的闘争」
琉球諸島は,(中略)尖閣諸島,先島諸島,大東諸島,沖縄諸島,大島諸島,トカラ諸島,大隅諸島 の7組の島嶼からなる」という記述があり,中国が尖閣諸島を沖縄の一部と認識していたことが分かる。
・中国の地理教科書 世界地図集(中国:地図出版社,1960年4月出版)では「尖閣群島」,「魚釣島」の記載が見られ、日本が主張する名称を用いている。また、尖閣諸島が沖縄に属するものとして扱われている。
・台湾の国民中学地理教科書(1970.1発行)の地図は「尖閣群島」と表記、1971年から「釣魚台列嶼」と表示。
・1918年、中華民国駐長崎領事が贈った福建省恵安県の31名の漁民救助に対する感謝状。感謝状の記述には、日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島とある。なお、感謝状の原物は、下記の博物館が保管している。
石垣市立八重山博物館/石垣市 (city.ishigaki.okinawa.jp)
「尖閣切手」極秘に発行 日米両政府の圧力かわす 琉球郵政庁、72年に | (yaeyama-nippo.co.jp) 八重山日報 2021/1/13
沖縄が日本に復帰する1カ月前の1972年4月、当時の琉球政府が、尖閣諸島のアホウドリを描いた切手を発行していた。当時の琉球郵政庁が「尖閣諸島が日本の領土であることを明示したい」という熱意から発行を計画。だが、中国、台湾を刺激することを嫌う日米両政府に配慮し、切手の図柄が尖閣諸島であることは極秘事項だった。
当時、沖縄は日本復帰を控えていたが、中国、台湾が尖閣諸島の領有権主張を始めていたこともあり、琉球郵政庁は「独自の切手を発行する権限があるうちに尖閣諸島の切手を作りたい」と考えた。
だが、当時は沖縄を統治する米国政府が切手の図柄を厳しくチェックしており、日本政府も中国、台湾を刺激する行動には反対していた。尖閣切手発行計画が明るみに出れば、両政府から中止の圧力が掛かるのは明白だった。
このため琉球郵政庁の首脳らは「尖閣切手」を、復帰後に開催が決定していた海洋博の記念切手にカモフラージュ。
沖縄の海や島を描いた「海洋シリーズ」の一環として発行した。(「八重山日報」より。一部省略。なお、切手に描かれた島は南小島である。)
・センカクモグラについて
尖閣諸島「希少モグラ」の現地調査 学者の要望、なぜ日本政府は認めない: J-CAST ニュース【全文表示】
組織情報|センカクモグラを守る会 (senkaku-mogura.jp)
古賀辰四郎 尖閣列島開拓記念碑-石垣島の観光スポット | 石垣島ツアーズ (ishigaki-tours.com)
沖縄県石垣市の八島緑地公園に、古賀辰四郎の尖閣列島開拓等の業績を記念した「開拓記念碑」が建てられている。古賀から尖閣諸島を引き継いだ栗原家が「財団法人古賀協会」を創立し、開拓記念碑を設置した。
・「尖閣研究」豆図解シリーズ(絵はがき付き) 尖閣諸島文献資料編纂会 2021.7
第1集 尖閣諸島前史 「ユクン・クバシマ」から「尖閣列島」へ
第2集 古賀辰四郎の尖閣諸島開拓 帝国産業界ニ貢献スル所頗ル大ナラン―絶海の孤島にカツオ大国夢見た!
第3集 米軍施政権下における尖閣調査 資源の宝庫 島も海も 沖縄の宝―高良学術調査団の五次にわたる調査
第4集 米軍施政権下における怒りの闘い 沖縄の宝 尖閣の島と海 守れ!!―領土標柱と警告板 設置 救難艇「ちとせ」による取り締まり
第5集 復帰前夜の尖閣めぐる秘話 琉球郵政人の熱き戦い―「尖閣アホウドリ」切手発行物語―
・尖閣諸島盛衰記 なぜ突如、古賀村は消え失せた? 尖閣諸島文献資料編纂会 2020年3月 尖閣諸島の歴史を知るうえで、貴重な文献である。また、魚釣島から古賀村が消えた理由も明らかにしている。
鈴木経勲の『南洋風物誌』について
地平線一面に拡がった青い海、南洋の動物、植物、豊富な果物、夕陽と島々の姿、密林、未知の現地の人々、マングローブの林。130年以上前の日本にも南洋の自然や風物に関心と興味を持った人々がいたことは間違いない。
鈴木経勲は生涯8度の航海に出かけ、太平洋の島々を訪れた。明治の南洋探検家の先駆者として知られている。彼は外務省に出仕(御用掛として明治11年~明治19年)、探検家・著述家を経て、従軍記者になり、その後は保険会社で働いた。大正・昭和に入り、南進論が現実化していくと、新聞雑誌に寄稿したり、インタビューを受けたりした。昭和13年84歳(85歳?)で亡くなった。死後、彼の業績を讃える伝記『太平洋探検家 鈴木経勲』(竹下源之介 1943)が出版され、彼の遺作『南洋冒険実記』『南洋巡航記』『南洋風物誌』の三部作も復刻出版された。
今回、取り上げた本は『南洋風物誌』である。この本は明治23年に出版予告がでたままで、原本は存在が確認されていない。大日本教育新聞に連載された鈴木の報告記録は付録として発行されていた。この付録を合冊製本したのが『冒険探奇南洋風物誌』である。この合冊本は、昭和19年に江崎悌三(九州帝国大教授)によって、『南洋風物誌』として復刻出版された。そのため、本書には鈴木の自序はない。この本(全頁274 日本講演協会出版 昭和19年11月)の構成を目次から見ていく。なお、本書は動物、植物の紹介が大半を占めている。
序文 鹽谷時敏 (明治26年5月)
解説 江崎悌三
南洋群島の略説
南洋航行中の奇観
風俗部 南洋十六蛮民の性行人情 観風雑記
動物部 * pp73-151 写生図入り
植物部 *pp155-212 写生図入り
習慣及器具
無人島探検記
補註 *pp250-277 [註は動物部、植物部、無人島探検記の島に付けられている]
序文を書いた鹽谷時敏(1855-1925)は漢学者で、第一高等学校の教授を務めた。鈴木とは昌平坂学問所で一緒に学んだ友である。友人として、本書の序文を書き、鈴木の南進論を鼓舞する内容になっている。鈴木の第六航海(事務員兼書記として参加)を主宰した田口卵吉も昌平坂学問所で学び、維新後の旧徳川家が設立した沼津兵学校を卒業している。田口は旧士族の救済事業を行い、後に衆議院議員になっている。鈴木もこの学校の普通科で研習したようである。鹽谷、田口も安政二年(1855)生れ、鈴木も同世代(従来は1854年生れ、1855年説もある)である。三名とも旧幕臣の子弟であり、負け組の生き方が三者三様に映し出されている。一番長生きした鈴木は、外務省時代のマーシャル諸島での調査をきっかけに探検家、南進論者として社会的な認知を広げるために、過激な南進論を唱えるようになった。
本書の解説は九州帝国大学の江崎教授が執筆し、鈴木の簡単な経歴、三部作の版本の説明、本書の概要を要領よくまとめている。
江崎教授のまとめの最後の文を長いが引用する。
「鈴木経勲が博物学者として特別の素養がなかったにも係はらず、その観察眼は相当に鋭く、よく要点を把握している点が多く、又表現が極めて要領を得ているものが多いのに敬服する。勿論その中に幾多の誤謬もあり、俗信を過信した所もあり、或は叙述不十分で今日その本態を十分認識し難いものもある。又付図も概ね要点を描写しているが、中には写生図でなくて、後になって記憶を辿って描いたのではないかと思われる様なものもある。併し彼が南洋探検に際してこれ等の事項を克明に記憶して後人に遺した努力に対しては深い感銘を禁じ得ない。」(下線は筆者)また、補註を加えるにあたって、農学、理学の教授や専門家の教示を得ていた。
江崎教授は鈴木の観察眼に敬服しながらも、手厳しく問題点(幾多の誤謬、俗信を過信、叙述不十分、後からの写生図など)を列挙している。そして、鈴木の後人に記憶を残した努力に感銘している。昭和19年の研究成果水準から50年前の鈴木の観察記録を的確に評価している。 そして、なによりも鈴木の探検家としての限界を明らかにしていたように思われる。本書は江崎教授の解説、補注があるからこそ、南洋の風物を紹介する本としての体裁を整えることができたのである。
補足であるが、本書の最後にあった「無人島探検記」に鈴木の南進論についての記述があったので、それに触れたい。鈴木は明治17年のマーシャル諸島行きで、マーシャル諸島の領有化を主張して、島王の家に日本国旗の掲揚をしたなどと、大正に入って語りだした。井上馨外卿に、鈴木に頼まれた後藤がこのことについての上申書を提出したとのことであるが、手柄や功名に先走った感がある。また、南進論の先駆者としてのアピールをしたいための行動であったとも推測される。
後の尖閣諸島の日本領編入にあたっても政府は、慎重に時間をかけて処理しているので、当時、列強との関係を最重視していた井上馨外卿の不興を買ったことは言うまでもない。外交官として権限外の行動であり、服務違反であることは間違いない。まもなく、後藤・鈴木も外務省を辞している。鈴木は外務省を辞したのは、殖民に適した島を探検するためであると「経歴書」に記していた。彼らが外務省に提出した復命書の関連書類には当然この上申書はない。「無人島探検記」には、上申書(群島王カプワラーポンの承引を請け来たりたれば、該群島は我邦の版図に入る)に対して、外務省は「豊饒枢要の地域なれば、外国人は之を今日迄捨て置く謂れなし。若し占領して後国家の厄介物たるときは始末を奈何せん。放棄して無事に置かんには」と答えたと、書かれている。
鈴木はこの後、彼が海軍省に提出した「経歴書」に拠ると様々な関係を使って、7回航海にでている。鈴木は探検家・南進論者として、海軍省に5回、探検した島々の領土化の政策の実施・嘆願書を提出しているが相手にされなかったようである。鈴木は「爾来余は航海業に従事し、運送船の水夫然として生を営む者も他なし」と述べ、列強が次々と南洋の島々を領有化していくことに「食喉を下らず、激血胸膜を破裂せんとする」と嘆いている。
昌平黌の学友がそれなりの社会的地位に就き、あの放蕩息子と言われ、マーシャル諸島の調査を共にした後藤猛太郎も日本映画活動フィルム株式会社(後の日活)の社長、貴族院議員になっていた。実業家、開拓者、貿易商人にも成れなかった鈴木は、ますます過去の寓話にこだわり、つじつまのあわない話を新聞雑誌に語るようになった。なお、鈴木と後藤は昭和13年に共に亡くなっている。
人類学者の中村茂生氏はこの点について、次のように述べている。「『経歴書』に”時未だ到らざりしが為に好結果を看る”ことができなかったと記す鈴木にとって、晩年、実際的な『南進』論者たちが容易に海を越えて活躍する時代まで生き存えた時、このような寓話や探検談を残すことによってせめて先駆者としての自画像を残そうとしたのではないだうか」(「経歴書」にみる鈴木経勲 1997)
次の人々が南洋に夢を求め、活躍した。
・南洋に消えた元祖ビジネスマン青柳徳四郎(1860-1892)
硫黄島を日本領土にした横尾東作(1839-1903)
・南洋開拓に生涯を捧げた松江春次(1876-1954) 南洋興発を経営
・南洋群島(サイパン・ロタ)でのコーヒー栽培に挑戦した住田多次郎(1883ー?)
・南洋群島に根付いた日本人たち
森小弁(1869-1945) 白井孫平、相澤庄太郎、中山正実
・尖閣諸島を開拓し、所有した古賀辰四郎(1856-1918)
参考文献
・中村茂生「経歴書」にみる鈴木経勲 史苑第57巻2号 1997.3
中村氏の論考には学ぶことが非常に多かった。各所で参考・引用している。
『南洋探検実記』と探検家鈴木経勲について
最近、南洋に関する気になっていた本を二冊、比較的割安の価格で、手に入れた。一冊目は鈴木経勲(1854~1938)の『南洋探検実記』である。この本は明治25年(1892)、昭和17年(1942)、昭和18年(1943)、昭和55年(1980)、昭和58年(1983)に出版されている。この本は「明治以後もっとも早い時期での貴重な太平洋諸島渡航の記録」(中村1997)として評価が定まっていた。
さて、私が手に入れたものは明治25年、東京博文館から出版された原本である。130年ほど前の古書で、裏表紙がなくなっているが、十分に読める状態である。多くの人々の手を経て、今日まで持ち主を転々と変え、保存されてきたかと思うと、なにかワクワクした気分にかられる。その気分も次に入手した本(高山1995)で、モヤモヤ感が増大した。
さて、鈴木経勲は旧幕臣出身で、明治期の南進論者、探検家、記者、著述家として知られている。鈴木経勲は、明治17年9月1日、外務省の御用係として南洋諸島に日本人水夫殺害事件の処理交渉と島々の調査を行うため、後藤猛太郎(政治家後藤象二郎の息子で御用係の英語通訳)と共に、イギリスの捕鯨船「エーダ」号に乗り込み、マーシャル諸島に向かった。帰国したのが明治18年1月18日、4カ月半の航海であった。その時の詳しい顛末が『南洋探検実記』の目録にある「巻一 マーシャル群島探検始末」に述べられている。「エーダ」号船長への聞き取り、寄港したマーシャル群島の紹介、日本人水夫の殺害事件の調査と尋問、犯人六人の拘束、島王との問答・談判、犯人への厳罰要求などの顛末が書かれている。
巻一の後半はマーシャル群島の地勢風俗及び物産について細かく紹介している。南進論者として、マーシャル群島の領有化に触れた箇所も数行ある。前半はスリルのある冒険・探偵物語を講談師が語っているような文章で展開され、後半は現地の風俗習慣、生活、動植物、気候、自然、地理、物産も語られる探検・調査記になっている。
巻二の「南洋巡航日誌」は、ハワイのオアフ島、南太平洋のサモワ島、ヒージー島(フィジー)について、地勢、風俗、言語、文化、物産などを書き留めている。
本書には巡航の経路図、挿絵として以下の図:独逸巡羅艇と海賊、島王との談判、島人の舞踊、船舶、葬儀、大蟹、食事の様子、捕鳥獣器、住宅と長橋、戦い、サモア王宮、島人の住宅、お墓、頭髪、古代の武器・神像、礼式、天主堂、木鼓、入墨、果物、木の葉、マングローブ、爬虫類、女性などがあり、各島の舞踊の挿絵が多めに掲載されている。
鈴木は本書の巻頭で、近年、伝聞、新聞・雑誌記事、外国の書物などを強引に混ぜ合わせて出版された南洋諸島の本が出版されているが、本書は現地を調査して目撃したものを書き留めた本であることを強く主張していた。
鈴木の三部作『南洋探検実記』『南洋巡航記』『南洋風物誌』は、南進論の世論形成に少なからず影響を与えたと言われている。後に海軍省に提出した鈴木の「経歴書」によると、計八回の航海歴があり、『南洋探検実記』はこのうちの第一航海(巻一)の日本人水夫殺害事件の糾明と島々の調査、第五航海(巻二)の調査、見聞紀行などにあたる。
戦前、鈴木は「大探検家」ともてはやされ、戦後もそのイメージが残っていた。南洋書誌に詳しい山口洋児も1988年には『南洋探検実記』について、「経勲の記述は、単に調査レポートの境を越え、民族学、動植物学、海洋、気象、地理などのレポートとしても詳細をきわめ、独特の絵入りで、日本初の南洋探検記として文句なしに優れたものである」と評価していた。ところが、1995年ミクロネシアの民族考古学に詳しい高山純が、『南洋の大探検家 鈴木経勲 その虚像と実像』( 三一書房)を公刊し、その中で『南洋探検実記』にある1884年のマーシャル諸島探検に関する記述などを詳細に他の多くの資料と比較検討し、鈴木の創作部分、誤認、矛盾点などがかなりあることを逐一指摘した。そして、1884年のマーシャル諸島での殺人事件の調査、犯人引き渡し交渉、島々の調査なども鈴木が作り上げたもの、すなわち「虚構」、机上の創作と手厳しく結論づけた。また、民族誌的な記述、挿絵も間違いが多すぎると指摘していた。現在の蓄積されたミクロネシア研究の成果から検証していた。
鈴木は残念ながら人類学、現地調査の訓練、経験、研究などの専門知識や教養はあまり持ち合わせていなかったのは事実である。鈴木が「オセアニアの人類学的研究をおこなった」わけでもない。ただ、読者を楽しませ、南洋への関心を喚起させる術を持った著述家、探検家であったと言える。外務省の雇員時代は、一般事務の仕事から抜け出ようとする上昇志向があったことは推測できる。マーシャル群島行きは鈴木にとって、その絶好の機会であった。
因みに、鈴木の学歴と外務省での役歴を「経歴書」より書き留めておく。昌平坂学問所、講武所、横浜語学所(仏語)、沼津兵学校(研習生)。外務省御用掛(明治11年-明治19年)での仕事内容は、翻訳生見習、翻訳局勤務、記録局横文編輯掛、図画掛兼務、条約取調掛勤務、統計掛兼務、外務省使用電信符号編纂掛兼務、条約改正会議録編輯掛。
高山の大著は当時八千円の定価、全398頁、参考文献は邦文、欧文併せて299点、膨大な数の文献であり、高山氏の執念と誠実な研究姿勢がうかがえる。ちなみに、私は比較的良い状態の本書を、350円で入手した。内容は、「前編 主として『南洋探検実記』に見られる記事の検証、後編 主として『南洋探検実記』以外に見られる記事の検証」に分かれている。高山は「あとがき」でこう述べている。
「探検実記」にはアメリカの漂流日記『レイニア号の難破』の本と同様に、随所に探偵小説なみに読者をはらはらさせずにはおかない筋の展開が見られる。最初、この「探検実記」がこのレイニア号漂流記を種本としているとは気付かなかった時には、その類似が経勲のマーシャル諸島探検記をいっそう本物のように思わせた。しかしやがて経勲がこれらの本を利用して出かけもしなかったマーシャル諸島の南洋探検記を著したことが分かったのであった。(下線は筆者)
この結論に、高山の検証に敬意を払いながらも、複数の研究者(中島洋、中村茂生、山口洋児)から疑問が出されている。中島は「復命書」の検証を軽視したため、重要点を見落としていると、的確な論評を行っている。また、種本とする漂流日記『レイニア号の難破』を鈴木が果たして読んでいたのか。復命書に添付された15種類の草木のスケッチが、現地に行かなくても日本での資料で描けたのか。疑問点を整理している。中村は「マーシャル行がなかったとするのは速断だ」と述べ、マーシャル諸島を訪問したかどうかは、「再考の余地がある」とも述べている。また、新しく発見した鈴木の「経歴書」(防衛研究所図書館保有)を丁寧に解説している。山口は東京帝室博物館所蔵品目録の中に、鈴木が持ち帰った物品が記載されていることを確認している。
私もとりわけ、井上外務卿から命令された出張、つまりマーシャル諸島への派遣が行われなかったとする結論には些か懐疑的である。私には、単純に次の疑問点が浮かんだ。
出張期間中の約四カ月半、外務省の御用係鈴木経勲は人知れずどこに雲隠れしていたのであろうか。「探検実記」には出発日には、沖神奈川県令と他の官員が見送り来ていて、狭い船室ではなく、甲板で出発の杯を交わしたとその様子が記されている。また、鈴木は両親とお祝いの杯を交わし、親戚、友人にも南洋諸島に「商用視察」のため、航行することを伝えている。これを全く無かったことにするのは難しいであろう。ここまで書いて、高山の大著を読み返してみると、後藤もマーシャル諸島には訪問しないで、どこかに潜んで、鈴木に頼んで「復命書」を書いて貰っていたと推測していた。(下線は筆者) 高山説では、後藤は井上外卿から支給された船のチャーター金を使い込んでしまったので、出張の偽装工作を行ったとしている。
外務省の御用係が、カラ出張、「復命書」(外交史料館保管)の偽造、提出など、これは当時でも服務規程違反であり、犯罪行為にあたる。「復命書」には関連書類として、帰国を知らせる電信送達紙、船長への報酬金・贈与金などに関する上申書、書簡なども添付されている。「復命書」には後藤猛太郎だけでなく、鈴木経勲の署名・捺印もある。なお、この「復命書」は天覧に附されている。現在、この「復命書」はデジタル(図・スケッチを含めて135枚)で公開されている。
[手に入れた鈴木、高山の本を十分読みこんだとは言えないが、疲れました。また、気が付いたところがあれば、記事にします。思うになかったことをあったことにする隠ぺい作業には、時間、労力、費用、心理的負担などが必要である。高山氏が推測する後藤・鈴木の隠ぺい工作は綻びなしで1995年まで知れることがなかったことになる。]
[補足]
鈴木経勲、後藤猛太郎が外務省からの南洋諸島へ派遣された目的は、日本人水夫殺害事件の調査と外交処理のためだけでなく、マーシャル諸島の調査もその任務であった。島の概況調査はこの二人だけでは足りず、調査を補佐する要員はいなかったのかと気になっていたが、鈴木経勲、後藤猛太郎は竹田新太郎という若い給仕を雇っていた。身の回りの雑用、時には夜の見張り番の仕事、島王への給仕もしていたと「南洋探検実記」には記されていた。島王の協力によって、島王の二人の英語通訳が全島の探検調査に随行している。島々の概況については島王から、物産、風俗形容、慣習・民情などは、通訳を通して島民に質問して採録していた。採写、記録は鈴木が主に行ったようである。「エーダ」号の前の航海では、八名の日本人乗組員(池田吉松・清水梅吉・逸見栄作・川畑萬五郎・安藤寅吉・信崎常二郎・河野常一・伊藤留吉)が乗船していたが、今回のマーシャル諸島の航海に乗船していたかどうかはわからない。他の資料では、池田吉松が乗船していたようである。果たして、後藤・鈴木・竹田・池田の四名で島々の調査ができたのか、疑問が残る。さらに、帰国後、船長に特別の贈与金(銀貨50円)を払っているので、船長の協力も大きいものがあったことは言うまでもない。
参考文献
・明治期におけるミクロネシア関係文献 山口洋児 参考書誌研究第32号 1986.10
・クロネシア資料文献解題 山口洋児 ミクロネシア通巻95号 1995
・『南洋の大探検家 鈴木経勲 その虚像と実像』について 中島洋 太平洋学会会誌第66/67号 1995.6
・「経歴書」にみる鈴木経勲 中村茂生 史苑第57巻第2号 1997.3
・外務省御用掛後藤猛太郎南洋マルシャル群島視察報告ノ件 (archives.go.jp)
・冒険ダン吉になった男 森小弁 将口泰浩 産経新聞社 2011
(著者将口は小説であるとし、参考文献も明示されていないので、書かれた内容に信憑性がどこまであるかわからないが、後藤象二郎の書生となった森小弁が、息子猛太郎が南洋から持ち帰った椰子の実に関心を持ち、猛太郎からマーシャル諸島への事件調査の話しを聞く場面がある。詳しくはpp82-85参照。)
最近読んだ南洋群島に関する二冊の本
オンライン書店の「日本の古本屋」で「南洋」を検索すると、なんと4,613件の在庫が確認された。南洋に関する書籍などが売り出されている。絵葉書、写真帖、雑誌、年鑑、統計書、風俗慣習、文化・宗教、地理、教育、資源、原住民族、南洋群島の発展概況、農業、水産、林業、鉱物、熱帯気候、熱帯植物、華僑、南洋紀行などに関する様々な資料の存在を知ることができる。出版元は南洋庁、南洋協会、南洋経済研究所、南洋文化協会、一般の出版社などであるが、南洋経済研究所からの出版・発行が最も多い。
私が読みたい書籍はどれも各出品本屋が値段を高く設定しているので、なかなか掘り出し物にはあたらない。そこで、某オークションで値段も割安な書籍を二点入手した。
一冊目は「サイパン会誌 心の故郷サイパン 第二号」(全486頁、平成六年四月発行、サイパン会)という会誌である。
サイパンを含めた南洋群島移住者のなかではとりわけ沖縄県出身者が多かった。サイパン島から沖縄県に帰還した人たちが組織したのがサイパン会である。会誌第二号の構成は、サイパン会本部編の目次が「発刊にあたって、祝辞、会則、会員役員名簿、初期移民の足跡 大正七年から昭和三年まで、南洋興発に関する資料、太平洋は波静か、サイパン帰りのシマンチュ」となっている。「初期移民の足跡」は沖縄から開拓移民として、森林を切り開き、サトウキビ栽培を成功させた苦難の歴史が写真、具体的な家族構成、入植後の状況などで語られている。入植後の状況は貴重な証言といえる。入植者の多くは森林の開拓、サトウキビ栽培、製糖工場などに従事している。サイパンでの製糖事業の発展と成功には、沖縄県人が原動力となったことは言うまでもない。
本部編の後は、チャランカ町編、南村編、東村編、泉村編、北村編、ガラパン町編となり、それぞれ各町村で暮らした移住者の思い出、追憶、写真、紀行文などが掲載されている。東村編に、私の関心のあるコーヒー栽培に関する記事を見つけた。タッパウチョウ山(431m)でコーヒー栽培をしている四家族が記されていた。隣接する南村チャランダンダンでも四家族がコーヒー栽培をしていた。
会誌のコーヒー栽培の記述は、これ以外に「タッパウチョウ山裾野周辺第二、第三段丘中腹部の雑木林地域傾斜地では、コーヒー、パパイヤ、タピオカ、バナナ、綿花等の特産作物を栽培している自作農の県人の方々も多数居り、・・・」(会誌p346)とのみ記されている。
二冊目の本は『南洋と松江春次』(能仲文夫 時代社 昭和16年11月 全534頁)である。製糖業を通して、南洋群島の開発と発展に貢献した松江春次の軌跡を論じた本である。
以下、目次の表題を書き記す。「南洋と日本、戊辰の役、貧しき松江一家、米国留学時代、日本で最初の角砂糖、工業界の恩人手島校長、台湾の糖業、新高製糖時代、南洋群島開拓に着目、南洋調査に向かふ、白人と南洋群島、南洋開拓失敗史、苦難の調査時代、南洋興発の誕生、南洋開拓に乗り込む、飢餓移民の歓喜、晴れの工場落成式,俄然精糖は大失敗、南洋放棄論の抬頭、資金欠乏に直面、糖業遂に成功、南洋開拓第二期、白人の植民統治、熱帯開発と日本人、南方開拓に凱歌、南方魚田の開拓、群島開拓は進む、外南洋進出の機会、世界の謎の島、原始土人の生活、松江の御前講、セレベスに進出、アラフラ海に進出、葡領チモール、海南島の開発へ、松江の南方経綸、人間松江春次、松江をかく観る、南洋の解放へ、松江春次年賦表」。この表題だけでも、旧会津藩士の次男であった松江春次が事業家として幾多の困難を乗り越え、成功を勝ち取っていく軌跡を追うことができる。
松江春次は会津中学から苦学して東京工業学校へ進学した。卒業後は日本精糖に就職し、農商務省の奨学金を得て、アメリカのルイジアナ大学に留学し、砂糖科を優秀な成績で卒業した。そして、アメリカのスプレックルス製糖会社で職工として働くが、一年で技師に昇格し、砂糖の研究に取り組んだ。欧州を経て帰国後、日糖で日本最初の角砂糖の製造に成功した。その後、台湾にある製糖会社に転職し、台湾の製糖業の発展に貢献したが、南洋でのビジネスチャンスを求め、サイパン島に調査にでかけた。サイパン島では経済恐慌の影響で倒産した製糖会社の千人の従業員が困窮に陥っていた。松江春次はこれらの従業員を救済し、サイパンでの製糖業を展開するために、南洋興発株式会社を設立し、南洋群島の開発に乗り出した。資金難、害虫駆除などの難題を解決し、サイパン島での製糖業を成功させ、南洋興発に関連する従業員、その家族を含めて五万人の入植者を受け入れた。松江春次は街づくり、教育機関の設置、病院、文化施設の建設などにも力を入れた。また、母校東京工業大学(5万圓)、故郷の会津工業学校(30数万圓)に対して、多額の寄付を行っている。
松江春次はサイパンだけでなく、ロタ、テニアンでのサトウキビ栽培・製糖、パラオでの水産、ペリリューでの燐鉱などの開拓事業を推し進めた。松江春次は外南洋のニューギニア(ダマール樹脂採取、ジュート栽培、綿花栽培)、セレベス(椰子園、コプラ)、葡領チモール(コーヒー園、カカオ園)、アラフラ海(真珠貝採取・加工)への事業進出を拡大した。
松江春次の事業拡大と果敢なチャレンジ精神はアメリカ軍のサイパン占領、そして日本の敗戦によって、すべて消え去った。しかしながら、松江春次の歩んだ道を通して、卓越したビジネス経営、チャレンジ精神、忍耐力は依然として学ぶところが多々ある。「砂糖王」と呼ばれた松江春次の銅像が昭和8年6月に作られ、彼の南洋群島の開発に対する多大な貢献を顕彰した。現在もサイパン島の中心街ガラパン地区にある「シュガーキングパーク(砂糖王公園)」に銅像は立っている。
この本の著者である能仲文夫の経歴が詳しくわからないが、『北蝦夷秘聞 樺太アイヌの足跡』(北進堂書店 昭和八年)、『南洋紀行 赤道を背にして』(中央情報社 昭和九年)などを出版している。本著の記述では南洋研究を十年ほど行い、本著の調査・執筆には一年半を費やしたという。
本書の序文で、能仲文夫は執筆の動機について「私が最初南洋の研究に手を染めた頃、非常に感激したことは、松江春次氏の南洋開拓に拂つたその努力である。そこで、私は機会があつたら、それを纒めて南洋植民地の開拓が、如何に血の滲むやうな努力が拂はれたかを世の多くの人たちに知らせたかったのだ」「近世日本が生んだ植民地開拓者としての代表的人物は『松江春次』だといつても、決してそれは誇張した言葉ではないと思う。所詮今日の南進論もかかる開拓者が、その基礎を築いたればこそである。本書が次の時代を背負つて立つ若い人々に一つの示唆を與へることが出来るならば、私の目的もそれで達しられるわけである」と述べている。
日米開戦前夜ということで、伏字が多数見られ、群島開発の現状についての言及もなく、p433~p442が削除されている。本書は1941年に書かれた松江春次の一代記であるので、当然、戦中・戦後(1941~1954)の松江春次が描かれていない。会津若松市のHPに掲載されている「あいづ人物伝」には次の記述がある。
「大戦の戦火が広がる昭和18年、春次は67歳で会社の経営を下りています。間もなくサイパンは占領され、敗戦で財産をほとんど失いました。晩年は『生来無一物』と大書し、サイパンへの郷愁を抱きながら、酒を酌み交わすことが楽しみでした。昭和29年(1954)に78歳で永眠しました」
今回は入手できなかったが、2005年、地元出身の郷土史家(?)塩谷七重郎 が歴史春秋社から『松江春次伝』を出版していた。絶版だが再版されるようである。再版を楽しみにしている。
国産コーヒーと南洋群島
日本人で初めてコーヒーを飲んだのは、江戸時代の長崎出島のオランダ語通詞であったと言われている。明治の文明開化ともにコーヒー飲用が徐々に広まっていった。海外からの輸入に依っていたコーヒーを日本で生産しようとしたのは、榎本武揚であった。榎本は小笠原諸島の父島にインドネシア産のコーヒーの苗を移植し、栽培に成功した。しかし、経済性の高いサトウキビの栽培拡大に押されて、コーヒー生産が低下していった。その後、太平洋戦争の勃発によって、島民が内地に疎開したため、コーヒー園は荒廃した。島民は23年後にやっと帰島でき、荒廃した島の再開発に乗り出した。幸い、野生化したコーヒーの樹が残っていたため、野瀬昭雄氏がコーヒーの栽培復活に取り組み、収穫に成功した。但し、年間で約200kgしか生産できない、希少なコーヒー豆である。(日本で採れるコーヒーがあるのを知っていた?小笠原コーヒーの秘密 - 小笠原村観光局 visitogasawara.com)
国際連盟から委任統治された南洋群島での製糖事業を展開するために、1921年、南洋興発会社が設立された。創設者の松江春次は経営能力を発揮し、製糖事業だけでなく、水産、農業、燐鉱業、貿易など幅広い事業展開を行い、サイパンの開発に貢献した。製糖工場はサイパン、テニアン、ロタ、ポナペに作られ、日本からの入植者は五万を超えた。
さて、国産コーヒーの生産のために、南洋珈琲会社はサイパン、ロタでコーヒーの栽培の事業を展開した。昭和10年に出版された『海外発展案内書』のなかに、サイパン島のコーヒーに関して次の記述があった。
「南洋珈琲は布畦島コナ地方に於いて多年珈琲栽培に従事してゐた西岡儀三郎、松本栄太、池田寅平氏等が日本領土内で珈琲を生産し、国産として珈琲を販出せしめ度いと云う理想のもとに住田多次郎氏を社長として五十萬圓の資本金を以つて、昭和四年よりサイパン島に於て事業を創始したものである。ラウラウ、タツポウテフ、ポートリコ、パーパコに農場を有し、耕地面積約二百町歩、ポンタマテフに六千餘坪の工場を有し、年約一萬俵位の生産を見つゝあり、香味よく国産コーヒーとして高評を受けてゐる。同社は更にロタ島に約二百町歩の官有地払下げを受け、近く同島に進出することになってゐる。」(「南洋群島の産業事情」p15 三平将晴 大日本海外青年会 昭和10年改訂 国会図書館デジタルコレクション)
放浪作家の安藤盛の『南洋記 踏査紀行』(昭和11年)を古書店で入手したので、コーヒー園に関連する部分を紹介したい。サイパン、ロタ、セレベス、ダバオ、ニューギニアなどの南洋群島を旅して、南洋の自然、食べ物、原住民の風俗習慣、日本人社会、南洋興発の仕事ぶりなどを軽快な筆致で書き留めている。安藤はロタ島でも南洋興発の製糖業を含む諸事業の発展に興味があり、コーヒーに関心はなく、辛口のコーヒー園紀行文で終わっている。
「・・・一軒の家が林をまばらに開墾した中に立っていた。そこはコーヒーを栽培する会社だった。会社員は、ここでコーヒーを作つて、日本に輸入されている南米あたりのコーヒーを防止すると、意気甚だ高かった。」この後、社員から植え付け面積が十七町歩、あと七八十町歩の作付け面積の拡大予定を知り、作者はその面積の少なさに唖然としている。また、「日本領南洋のコーヒーは、粗悪と云われる南米コーヒーより、もっと粗悪で、その香気さへ低い」(安藤盛 pp24-25)とその味を酷評している。実際、安藤が南洋産のコーヒーを飲んだかはこの紀行文には書かれていない。ここで記されているコーヒー栽培会社とは南洋珈琲株式会社のことであり、戦時中、南洋興発に吸収合併されている。
サイパンでのコーヒー栽培は、サトウキビ栽培に比べると規模は小さいながら順調に発展し、最盛期期には年間290トンのコーヒーを日本に輸出したという。しかし、太平洋戦争によって、サイパン、ロタなどでの南洋興発の事業はすべて無に帰した。
戦後、荒廃し、放置されたコーヒー園は、現在サイパン、ロタで奇跡の復活をとげている。現地を取材した産経新聞の記者は次の様に記している。
「眼下に広がる緑の山林は、日本の委託統治領時代はコーヒー山と呼ばれていた。ここだけではない。最高峰のタッポーチョ山を除き、すべての山の通称がコーヒー山だった。それほどコーヒー栽培が盛んだったのだ」(産経新聞2015.6.7)
カリフォルニアからサイパン島に移住したアメリカ人ジョーダン夫妻が、このコーヒー山で野生化したコーヒーの木を栽培して、「マリアナスコーヒー」というブランド名のサイパン産コーヒーを少量ながら生産している。100%サイパン産のコーヒーが市場に出回るのは限られているが、いつか味わってみたい。
ロタ島ではUCC上島コーヒー、KFCトライアスロンクラブとロタ市が協力して、日本人の開発した旧コーヒー園で自生する原木より採取した実から苗木を育て、コーヒーの栽培を行うプロジェクトを推進している。採取されたコーヒー豆を試飲した結果、味は「柑橘系のフルーティーさ、酸味や甘みもあり、ポテンシャルは高い」(産経新聞2023.8.16)と評価されている。これらの取り組みにより、「ロタブルーコーヒー」という新しいブランド名のコーヒーが2025年に商品化される予定である。ロタ島の活性化のためにも、この事業が成功することを祈っている。
参考文献
・80年前のコーヒー「奇跡」のリレー 産経新聞2023.8.16
・日本人が夢見た「南洋コーヒー」 産経新聞2023.8.2
・復活した「南洋興発コーヒー」 産経新聞2015.6.7
・激動の歴史をくぐり抜けたコーヒーの木 空想地球旅行 (walkthrough-the-earth.com)
2012.3.15
・あいづ人物伝 南洋開発にかけた一生 松江春次 (city.aizuwakamatsu.fukushima.jp)
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江戸川乱歩の『新寶島』に見る南洋
「冒険ダン吉」の連載が終わった後、『少年倶楽部』誌上では、江戸川乱歩の少年向けの作品「新寶島」(1940年)の連載が始まった。江戸川乱歩は既に『怪人二十面相』(1936年、昭和11年)『少年探偵団』(1937年、昭和12年)などの子供向け作品を発表し、人気作家となっていた。私も子供の頃、少年探偵団ごっこで遊び、そして名探偵明智小五郎のカッコよさに憧れたものである。
さて、「新宝島」について、乱歩は次のように執筆の動機を述べていた。
「この物語は、大東亜戦争勃発以前、昭和15年度に執筆したものであるが、当時既に我々の南方諸島への関心は日に日に高まりつつあったので、その心持が、物語の舞台を南洋に選ばせたものであろう。・・略・・ しかしながらこの物語の主眼は寧ろ前半の、三少年の海洋と孤島における冒険生活にある。次々と襲い来る艱難を、少年の智慧と工夫によって一つ一つ克服していく、百折不倒の精神にある」(新寶島 序文)
乱歩は早稲田大学を卒業した後、一年という短い期間であるが、「加藤洋行」という貿易会社で働いたことがある。南洋からの発注品を仕入れて、送る仕事をしていた。南洋諸島のセレベス島メナド港からの注文もあり、相手方に仕入れた雑貨を送ったりしていた。この経験から、乱歩は「新宝島」のなかで、このセレベス島のメナド港に海賊船を寄港させていた。乱歩は自分史資料である『貼雑年譜』のなかで、会社員時代について、次のように記録していた。
「私ハ入社間モナク、ソノ南洋方面カラノ手紙ヤ電報デ注文シテクル雑貨ノ仕入レ掛リトナリ、大阪市内ノ問屋ヲ歩キ廻ル仕事ヲサセレㇻレタ。注文主ハ主ニ向ウノ日本人商館デ、種々雑多ノ雑貨ヲ仕入レテ送ツテヤラナケレバナラナカツタ。・・略・・セレベス島ノメナド港ニ小サイ日本人ノ店ガアツテ、ソコカラ面倒ナ品物ヲヨク注文シテキタノヲ覚エテヲル。」(講談社 1989年 p 32)
この少年向けの物語は、前半では「ロビンソン・クルーソー漂流記」の影響を強く受けたサバイバル冒険生活をスリリングに描き、後半は黄金国を探りあてる冒険旅行を描き、資源のない日本が南洋で金を追い求める冒険小説仕立てになっている。私は乱歩が力を入れて描いた前半の冒険生活が、宝探しの後半より好きである。
海賊船に誘拐された三少年が南洋という未知の世界で、それぞれ知恵、勇気を駆使していくつもの困難を乗り越えていく姿に、当時の読者の子供たちも胸を熱くされ、鼓舞されたことであろう。海賊船からボートで脱出、飢えと渇きを克服しながら無人島にたどり着き、仲良し三人組のサバイバル生活が始まる。この三人に、犬、鸚鵡、眼鏡猿が仲間に加わり、賑やかになる。三人組の冒険生活は、少年探偵団の知恵、勇気、友情を彷彿させる。三人組は少年探偵団のメンバーであるかのように描かれている。
乱歩の南洋との職業経験、南洋への関心・憧れ、南洋ブーム、「ロビンソン体験願望」、欧米の冒険・探検映画、日本の南進政策などが、南洋の島を舞台にして、少年たちが活躍する冒険物語を生み出したのではないかと思う。
さて、戦後まもなく、手塚治虫が漫画『新寶島』を発表した。戦後、最初の手塚作品(酒井七馬との共作)であり、当時40万部のベストセラーになった。この作品について、原案・構成は酒井七馬、作画手塚治虫とされて、出版されたことに、手塚はかなり不満だった。それゆえ、後に全集発刊の際、この作品を全集に加えることに消極的であった。出版社と協議した結果、全集に加えるにあたっては、絵、構成、結末などの改訂や作画の修正を行っている。
南洋ブームを背景として書かれた江戸川乱歩の『新寶島』に影響を受けている場面が出てくる。また、『冒険ダン吉』の作者島田啓三とは自分の描いた漫画の評価を聞く間柄であり、『冒険ダン吉』を読んで影響を受けていたことは言うまでもない。因みに、手塚から『新寶島』を見せられた島田は「こんな漫画がはやるようになれば、たいへんなことになる」と語ったという。
漫画では、乗っている船が嵐で難破したので、海賊の手から脱出することができ、船の残骸で筏を作って南海を漂流し、ついに無人島に上陸している。仲間は宝の地図を持った少年と船長、そしてパンという犬であった。無人島でのサバイバル生活、無人島には猛獣を従えるバロン(ターザンをモデル)や人食人種との遭遇、宝の地図を巡る海賊とのバトル、そして宝の発見などが描かれている。改訂版では、犬は妖精であり、妖精の暗示で、少年は過去の夢の世界で冒険生活や冒険旅行、宝探しをしていたという、手塚らしい「夢オチ」で物語を終わらせている。
手塚の『新寶島』は、南洋ブームを背景に書かれた島田の『冒険ダン吉』や乱歩の『新寶島』とは違った、別の南洋の孤島を舞台にした宝探しの長編漫画作品になっている。漫画界では、戦後の漫画ブームを作りあげた先駆的で重要な作品として評価されている。