赤穂義士武林唯七の刀について 

 前回に引き続き、赤穂義士武林唯七についての話しをしていきたい。

 武林唯七が討ち入り時に使った刀は越前刀工の藤原重高(二代目)の作という。刀の茎には重高の銘のほか、「元禄十五年壬午(みづのえうま)歳五月吉日、浅野長矩家臣、武林唯七隆重三十二歳」とあり、刃長は二尺五寸一分であった。(『新刀押象集下巻』鹿島勲・内田疎天著 昭和十年刊)

鹿島勲・内田疎天『新刀押象集上・下巻』大阪刀剣会 昭和10年 p429

赤穂義士が討ち入り時に使ったとされる佩刀については、広島浅野本家に伝わる『義士佩刀覚書』や『泉岳寺記』が知られているが、大方が創作されていて、その信用度はかなり低い。義士たちの愛刀は三百年余の歴史の中で、持ち主が転々とし、その所在が不明のものが多い。武林唯七の口承、伝承の刀は6振りあるが、どれもが確証があるわけではない。[i]先述した唯七の銘が切られた藤原重高(二代目)の刀が今のところ有力な唯七の刀と考えて良い。[ii] ただ、この刀の所在は、現在では所蔵先が不明である。

さて、武林唯七の墓は、東京の泉岳寺と赤穂の花岳寺にある。これ以外に、福井県福井市瑞源寺(臨済宗妙心寺派)近くの法興寺(浄土宗西山禅林寺派)が管理する小山谷墓地に唯七の墓がある。瑞源寺は越前松平家菩提寺のひとつである。唯七の墓がなぜ福井市の小山谷墓地にあるかは不明である。この墓を小山谷墓地で発見した郷土の写真家故八木源二郎氏の写真・説明によると、分銅型らしき家紋の下に「武林唯七」(高さ約40㎝)とあるだけで、側面には建立者名、建立年月日などは無いようである。

武林唯七は近習で江戸勤番。事件以後、江戸急進派の中心的人物堀部安兵衛を畏敬し、早期討ち入りに賛同していた。安兵衛の義父弥兵衛の妻は越前松平家家老本多孫太郎長員の江戸屋敷(吉良邸北隣東側)の次席留守居役忠見政常の妹であり、安兵衛切腹後の堀部家は忠見家次男言真(文五郎)が養子となり、継いでいる。討ち入り当日も言真が吉良邸前まで弥兵衛に随伴していた。吉良邸の絵図面も忠見家から安兵衛が手に入れたといわれる。義士切腹後、堀部言真は熊本細川家に召し抱えられている。また、三男友四郎は若狭小浜藩家臣大嶋(島)家の養子となっている。[iii] 唯七は安兵衛・弥兵衛を通して、忠見家や堀部言真と関係を持ち、その縁で藤原重高(二代目)に作刀を依頼した可能性もある。唯七の墓を建てたのは堀部言真ではなく、越前の刀鍛冶藤原重高(二代目)ではないかと推測する。唯七が討ち入り前に調達した刀が越前の刀鍛冶藤原重高(二代目)とするならば、藤原重高(二代目)または重高縁者が唯七の霊を弔うため墓を作った可能性の方が高い。なお、脇差は同じく越前関兼植〔せき かねたね〕の作といわれる。浪人中の唯七が重高(二代目)に作刀を依頼できるかという素朴な疑問もあるが、重高(二代目)の刀は当時それほど高価な刀ではなく、唯七もお金を工面すれば何とか手に届く刀であった。重高(二代目)は、越前だけてなく、江戸においても作刀していたといわれる。現在でも重高(二代目)の刀は50~20万円ぐらいで取引されている。江戸時代でも高価な刀ではなかった。

戦前の刀工で、刀剣に造詣が深く、刀剣に関する多くの著書を発表している成瀬関次は次のように述べている。

「この國清と同じ越前関に重高というのがある。赤穂義士の一人、竹林唯七が仇討ち当夜佩用した二尺五寸一分、播磨大掾藤原重高はその二代目で、当時はあまり認められなかった安価な刀であった。
 しかも、物打ちに刃こぼれを研いだあとがあり、あまり上作でなかったこの刀を揮って、上野介の嫡子義周を斬り、次いで須藤與一左衛門を討ち、最後に吉良上野介を斬ったのである。唯七の脇差しはやはり越前関兼植〔かねたね〕の作であった。この刀は、寛永が初代で、越前國住兼植と銘に切る」

(成瀬関次著『実戦刀譚』 実業之日本社 昭和16年刊)

尚、打刃物の産地武生は刀鍛冶を多く輩出し、先述した越前松平家付家老本多孫太郎長員の知行地(2万石)であり、堀部家の親戚である忠見家が刀工重高と関係があっても不思議なことではない。播州赤穂出身の唯七が越前の刀工が鍛えた刀と脇差を帯刀していた由縁が推測できる。

堀部安兵衛の従弟で無二の親友佐藤條右衛門の『討入り従軍記』には、討ち入りの後、唯七が曲がった自分の刀を條右衛門に見せ、「これで吉良を打ち取った。しかし、暗いところであったので、物に打ち当たり、刀が反り返ってしまい、鞘に入らなくなった。このこと覚えておいていただきたい」と当時の様子をアピールしていたと記されている。唯七の吉良を絶命させたというアピールは『江赤見聞記』巻四、『忠誠後鑑録』或説上にも見える。重高(二代目)の刀は唯七の吉良方との激しい切り結びに大いに役立ったといえる。重高(二代目)にとっても義挙で自分の刀が使われたことは大きな誇りであったと思う。[iv]

さて、先述した安兵衛の従弟で無二の親友佐藤條右衛門(実家は越後新発田藩小須戸組大庄屋)は討ち入り当日の夜から討ち入り終了後の吉良邸退去、泉岳寺への引き上げまでの様子について実況記録を残している。この記録が明らかになったのは、今から18年前のことである。浪人であった佐藤條右衛門は事件後、越後村上藩(間部家)に仕官し、間部家の鯖江転封に従い、越前鯖江藩に勤める。記録では佐藤覚兵衛と名を改め、徒士頭、町奉行を務め、享保19年(1734年)の鯖江藩『藩庁日記』にその名がみえる。尚、佐藤家の子孫は今日まで続いている。

参考文献

・鹿島勲・内田疎天『新刀押象集上・下巻』大阪刀剣会 昭和10年

・読売新聞福井支局『福井の意外史」昭和52年6月

・八木源二郎『福井カメラ風土記 上・下』品川書店 昭和54年

福永酔剣赤穂義士の刀」『日本刀物語』雄山閣 昭和63年

・成瀬関次著『実戦刀譚』 実業之日本社 昭和16年

・「忠臣蔵の”従軍記”発見」読売新聞(江東版) 2002.11.9

・冨沢信明『討入り従軍記:佐藤條右衛門覚書』中央義士会 2012.7

・冨沢信明「堀部安兵衛の刎頚之友・佐藤條右衛門の出自について」『中央義士会会報』64号 平成24年12月

 

[i] 昭和の時代に真偽は兎も角、唯七の刀と称されたもの(脇差は除く)には、次の六振りの刀がある。①赤穂大石神社所有②唯七の銘入りの刀(藤原重高二代目作)③細川藩士鎌田軍之助(細川家預かり17名義士引取役)の子孫鎌田景象氏所有兼光二代、二尺四寸六分。(昭和16年)④山口県下関市在住小林重威氏所有天正祐定、二尺一八分。⑤町田市立自由民権資料館特別展「大坂事件」(1998.10.9~11.28)にて大矢正夫氏所有の唯七の刀が展示。⑥泉岳寺展示品(戦前は参拝記念絵葉書に載せられていたが、現在の義士記念館所蔵目録には不掲載なので、所有者から借りて展示したものと考えられる。銘は越前国康継、一尺九寸) なお、『義士佩刀覚書』には、唯七が討ち入り時に使用した刀は廣國二尺とあるが、その確証は全くない。

[ii] 福永酔剣氏はこの刀に切られている文字に、二つの疑問を挙げている。唯七の年齢は37歳であり、32歳は間違いとしている。この疑問は他の多くの史料に基づけば明らかに間違いであり、唯七は32歳である。もう一つの疑問として刀に切された「浅野家家臣武林唯七」という文字である。福永酔剣氏は、討ち入り前に浅野家家臣を使うことは不用心としている。この理由で、唯七の刀ではないとすることには無理がある。直情型の唯七は近習として主君長矩に仕え、何よりも浅野家家臣であることを誇りとしているので、信頼のおける刀工にこの銘の文字を依頼することは疑問に思うようなことではないと考える。                  

[iii] 忠見家は長男宗助が継ぎ、次男文五郎は堀部家を継ぎ、三男友四郎は若狭小浜藩酒井家臣大嶋家の養子となっている。忠見家の弥兵衛・安兵衛の遺品は三兄弟が形見分けしている。2012年12月18日放送の「なんでも鑑定団」では小浜在住の大嶋家の子孫が保管する安兵衛の文五郎宛の自筆の書状、安兵衛の義母宛の書状(写し)、弥兵衛自筆の遺訓の草稿が鑑定出品され、話題になった。鑑定額は安兵衛の自筆書状が500万円、三点で950万円であった。

[iv] 唯七は討ち入り時に、大小の刀と槍で武装していたといわれる。『赤城士話』によると大身槍、『江赤見聞記』によると十文字槍とある。しかし、『預置候金銀受払帳』の記載では唯七は討ち入り用に「長刀(なぎなた)を一両で購入し、受取証が残っている。ともかく、討ち入り時に使用したと言われる唯七の槍は、福井県坂井市三国町の滝谷寺(真言宗智山派)に現存している。伝承では長府毛利家から南部藩に伝わり、南部藩から三国滝谷寺の檀家であった船問屋竹内次郎五郎が拝領し、それを滝谷寺に寄進したという。