幕末の長州藩お抱え石工武林唯昌について

 江戸時代の儒学者室鳩巣の『鳩巣小説』の「武林家家譜」に、長州毛利家に仕える武林兵助が登場するが、萩藩分限帳、萩藩閥閲録、譜録にも武林家の記載がない。また、唯七が幕府に提出した親類書にも武林兵助の記述はない。

 文筆家の李家正文氏(李家元宥の子孫)は幕末の萩藩御用石工武林唯昌が萩武林家の末裔と信じている。唯七の祖父孟二官(武林治庵)と萩武林家は果たして縁戚関係があるのか、筆者は関心を持っている。

 幕末期、武林唯昌は防府天満宮大宰府天満宮北野天満宮狛犬(萩狛犬)を製作したことで名を知られている。京都の北野天満宮の第二鳥居の左右に武林唯昌の制作した萩狛犬がある。

武林唯昌制作の萩狛犬


そのの台座には確かに「長州萩石匠師 武林孟唯昌」の名前が刻まれている。狛犬の寄進は文久二年(1862年)である。

狛犬の台座に武林唯昌の名前が刻まれている 

李家正文氏は次のように語っている。

「この石屋の武林家には、近くの満行寺筋に渡辺という親類もあった。伯父や父は、城に近い老萩町平安古の江向に面した邸で生まれた。それで昔のことをよく知っていて、中学生の私にいろいろなことを語ってくれた。その一つに、武林家も、明治維新で、士族の商法の石屋になっているが、実は赤穂四十七士のひとり武林唯七の子孫であると。」(李家正文『歴史と文学の間』桜楓社 1982年 p174) また、宮本哲治氏(萩出身)は「毛利家と武林唯七とは何の因縁であろうか。現在、萩市平安古字石屋町に、唯七の子孫武林治朗氏が住んでいる」(宮本哲治『古文書による赤穂義臣伝』科学書院 1988.12  p5)と記していた。李家氏、宮本氏もはっきりとした史料に依拠して、述べているわけではない。

また、石屋町の「徳富道行橋のそばには萩藩お抱え石工であった武林家の古い立派な屋敷が、その名残を今に伝えている」(『市報はぎ』1997.7.15)と市報に掲載されていた。1987年当時、萩市内にはその石工の子孫武林家が居住していたことは確かである。その他、「長州奇兵隊士名鑑」には武林隣平、武林次郎の親子の名があり、中間の身分のようである。武林唯昌とは如何なる関係だろうか。長州の武林家末裔についての調査は、残念ながらここまでである。

 コロナ禍で萩への調査旅行が中断されていたが、機会を見て萩を訪問して、石工武林唯昌や武林兵助について調査する予定である。