鈴木経勲の『南洋風物誌』について

 地平線一面に拡がった青い海、南洋の動物、植物、豊富な果物、夕陽と島々の姿、密林、未知の現地の人々、マングローブの林。130年以上前の日本にも南洋の自然や風物に関心と興味を持った人々がいたことは間違いない。

 鈴木経勲は生涯8度の航海に出かけ、太平洋の島々を訪れた。明治の南洋探検家の先駆者として知られている。彼は外務省に出仕(御用掛として明治11年~明治19年)、探検家・著述家を経て、従軍記者になり、その後は保険会社で働いた。大正・昭和に入り、南進論が現実化していくと、新聞雑誌に寄稿したり、インタビューを受けたりした。昭和13年84歳(85歳?)で亡くなった。死後、彼の業績を讃える伝記『太平洋探検家 鈴木経勲』(竹下源之介 1943)が出版され、彼の遺作『南洋冒険実記』『南洋巡航記』『南洋風物誌』の三部作も復刻出版された。

今回、取り上げた本は『南洋風物誌』である。この本は明治23年に出版予告がでたままで、原本は存在が確認されていない。大日本教育新聞に連載された鈴木の報告記録は付録として発行されていた。この付録を合冊製本したのが『冒険探奇南洋風物誌』である。この合冊本は、昭和19年に江崎悌三(九州帝国大教授)によって、『南洋風物誌』として復刻出版された。そのため、本書には鈴木の自序はない。この本(全頁274 日本講演協会出版 昭和19年11月)の構成を目次から見ていく。なお、本書は動物、植物の紹介が大半を占めている。

南洋風物誌 昭和19年発行

序文 鹽谷時敏 (明治265)  

解説 江崎悌三                  

南洋群島の略説   

南洋航行中の奇観  

風俗部 南洋十六蛮民の性行人情 観風雑記 

動物部 * pp73-151    写生図入り

植物部   *pp155-212   写生図入り

習慣及器具 

無人島探検記 

補註 *pp250-277   [註は動物部、植物部、無人島探検記の島に付けられている]

 

南洋諸島に生息するボーシン鳥

序文を書いた鹽谷時敏(1855-1925)は漢学者で、第一高等学校の教授を務めた。鈴木とは昌平坂学問所で一緒に学んだ友である。友人として、本書の序文を書き、鈴木の南進論を鼓舞する内容になっている。鈴木の第六航海(事務員兼書記として参加)を主宰した田口卵吉も昌平坂学問所で学び、維新後の旧徳川家が設立した沼津兵学校を卒業している。田口は旧士族の救済事業を行い、後に衆議院議員になっている。鈴木もこの学校の普通科で研習したようである。鹽谷、田口も安政二年(1855)生れ、鈴木も同世代(従来は1854年生れ、1855年説もある)である。三名とも旧幕臣の子弟であり、負け組の生き方が三者三様に映し出されている。一番長生きした鈴木は、外務省時代のマーシャル諸島での調査をきっかけに探検家、南進論者として社会的な認知を広げるために、過激な南進論を唱えるようになった。

本書の解説は九州帝国大学の江崎教授が執筆し、鈴木の簡単な経歴、三部作の版本の説明、本書の概要を要領よくまとめている。

江崎教授のまとめの最後の文を長いが引用する。

 「鈴木経勲が博物学者として特別の素養がなかったにも係はらず、その観察眼は相当に鋭く、よく要点を把握している点が多く、又表現が極めて要領を得ているものが多いのに敬服する。勿論その中に幾多の誤謬もあり、俗信を過信した所もあり、或は叙述不十分で今日その本態を十分認識し難いものもある。又付図も概ね要点を描写しているが、中には写生図でなくて、後になって記憶を辿って描いたのではないかと思われる様なものもある。併し彼が南洋探検に際してこれ等の事項を克明に記憶して後人に遺した努力に対しては深い感銘を禁じ得ない。」(下線は筆者)また、補註を加えるにあたって、農学、理学の教授や専門家の教示を得ていた。

 江崎教授は鈴木の観察眼に敬服しながらも、手厳しく問題点(幾多の誤謬、俗信を過信、叙述不十分、後からの写生図など)を列挙している。そして、鈴木の後人に記憶を残した努力に感銘している。昭和19年の研究成果水準から50年前の鈴木の観察記録を的確に評価している。 そして、なによりも鈴木の探検家としての限界を明らかにしていたように思われる。本書は江崎教授の解説、補注があるからこそ、南洋の風物を紹介する本としての体裁を整えることができたのである。

マングローブとアダー草

  補足であるが、本書の最後にあった「無人島探検記」に鈴木の南進論についての記述があったので、それに触れたい。鈴木は明治17年マーシャル諸島行きで、マーシャル諸島の領有化を主張して、島王の家に日本国旗の掲揚をしたなどと、大正に入って語りだした。井上馨外卿に、鈴木に頼まれた後藤がこのことについての上申書を提出したとのことであるが、手柄や功名に先走った感がある。また、南進論の先駆者としてのアピールをしたいための行動であったとも推測される。   

 後の尖閣諸島の日本領編入にあたっても政府は、慎重に時間をかけて処理しているので、当時、列強との関係を最重視していた井上馨外卿の不興を買ったことは言うまでもない。外交官として権限外の行動であり、服務違反であることは間違いない。まもなく、後藤・鈴木も外務省を辞している。鈴木は外務省を辞したのは、殖民に適した島を探検するためであると「経歴書」に記していた。彼らが外務省に提出した復命書の関連書類には当然この上申書はない。「無人島探検記」には、上申書(群島王カプワラーポンの承引を請け来たりたれば、該群島は我邦の版図に入る)に対して、外務省は「豊饒枢要の地域なれば、外国人は之を今日迄捨て置く謂れなし。若し占領して後国家の厄介物たるときは始末を奈何せん。放棄して無事に置かんには」と答えたと、書かれている。

 鈴木はこの後、彼が海軍省に提出した「経歴書」に拠ると様々な関係を使って、7回航海にでている。鈴木は探検家・南進論者として、海軍省に5回、探検した島々の領土化の政策の実施・嘆願書を提出しているが相手にされなかったようである。鈴木は「爾来余は航海業に従事し、運送船の水夫然として生を営む者も他なし」と述べ、列強が次々と南洋の島々を領有化していくことに「食喉を下らず、激血胸膜を破裂せんとする」と嘆いている。

 昌平黌の学友がそれなりの社会的地位に就き、あの放蕩息子と言われ、マーシャル諸島の調査を共にした後藤猛太郎も日本映画活動フィルム株式会社(後の日活)の社長、貴族院議員になっていた。実業家、開拓者、貿易商人にも成れなかった鈴木は、ますます過去の寓話にこだわり、つじつまのあわない話を新聞雑誌に語るようになった。なお、鈴木と後藤は昭和13年に共に亡くなっている。

 人類学者の中村茂生氏はこの点について、次のように述べている。「『経歴書』に”時未だ到らざりしが為に好結果を看る”ことができなかったと記す鈴木にとって、晩年、実際的な『南進』論者たちが容易に海を越えて活躍する時代まで生き存えた時、このような寓話や探検談を残すことによってせめて先駆者としての自画像を残そうとしたのではないだうか」(「経歴書」にみる鈴木経勲 1997)

次の人々が南洋に夢を求め、活躍した。

・南洋に消えた元祖ビジネスマン青柳徳四郎(1860-1892)

硫黄島を日本領土にした横尾東作(1839-1903)

・南洋開拓に生涯を捧げた松江春次(1876-1954) 南洋興発を経営

南洋群島(サイパン・ロタ)でのコーヒー栽培に挑戦した住田多次郎(1883ー?)

南洋群島に根付いた日本人たち

  森小弁(1869-1945) 白井孫平、相澤庄太郎、中山正実

尖閣諸島を開拓し、所有した古賀辰四郎(1856-1918)

 

参考文献

・中村茂生「経歴書」にみる鈴木経勲  史苑第57巻2号 1997.3

 中村氏の論考には学ぶことが非常に多かった。各所で参考・引用している。

冒険ダン吉になった男 森小弁 将口泰浩 産経新聞社 2011