浮世絵に描かれた赤穂義士武林唯七(国芳・国周・芳虎)

武林唯七は討入急進派として知られた赤穂義士のひとりである。祖父孟二官(武林治庵、渡辺治庵)は寛永年間に明国浙江省杭州から渡日した。武林唯七は孟二官の次男の家系で、長男の家系は現在まで子々孫々つながっている。

唯七の討入時の活躍については、江戸時代に書かれた多くの書物で伝えられている。ここでは、江戸時代の浮世絵に描かれた雄姿をお見せしたい。いずれも筆者が入手した浮世絵である。

一枚目は歌川国芳(うたがわくによし)作の『誠忠義士伝』竹林唯七隆重である。歌川国芳(1798-1861)は江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、歌川豊国の弟子で、「武者絵の国芳」として知られていた。

歌川国芳の浮世絵 竹林唯七

もう一枚は幕末・明治期に活躍した浮世絵師豊原国周(1835-1900)の『義士討入図』武林唯七である。豊原国周(とよはらくにちか)は役者絵を得意とし、「役者絵の国周」として評価が高い浮世絵師である。

豊原国周 武林唯七

 三枚目は歌川芳虎の『義士四拾七人之内』竹林定七隆重像である。芳虎は幕末から明治中期にかけて活躍した絵師である。歌川国芳の門人であったが、後に破門されている。武者絵を得意とし、美人画、横浜絵、開化絵、西南戦争を描いた錦絵など多数の作品を描いている。

歌川芳虎の竹林定七像

四枚目は同じく歌川芳虎の『忠臣義士銘々伝 竹林貞七孟隆重』である。

歌川芳虎の竹林貞七

この他、歌川国貞(1786-1865)『誠忠義士伝 武林唯七隆重 市川市蔵』、月岡芳年(1839-1892)『誠忠義士銘々画伝 武林唯七孟隆重』などの浮世絵がある。月岡芳年歌川国芳の弟子で、国芳の「武者絵」を継承している。また、最後の浮世絵師とも言われる。