『南洋探検実記』と探検家鈴木経勲について

 最近、南洋に関する気になっていた本を二冊、比較的割安の価格で、手に入れた。一冊目は鈴木経勲(1854~1938)の『南洋探検実記』である。この本は明治25年(1892)、昭和17年(1942)、昭和18年(1943)、昭和55年(1980)、昭和58年(1983)に出版されている。この本は「明治以後もっとも早い時期での貴重な太平洋諸島渡航の記録」(中村1997)として評価が定まっていた。

 さて、私が手に入れたものは明治25年、東京博文館から出版された原本である。130年ほど前の古書で、裏表紙がなくなっているが、十分に読める状態である。多くの人々の手を経て、今日まで持ち主を転々と変え、保存されてきたかと思うと、なにかワクワクした気分にかられる。その気分も次に入手した本(高山1995)で、モヤモヤ感が増大した。

『南洋探検実記』 明治二十五年 博文館 全333頁

 さて、鈴木経勲は旧幕臣出身で、明治期の南進論者、探検家、記者、著述家として知られている。鈴木経勲は、明治17年9月1日、外務省の御用係として南洋諸島に日本人水夫殺害事件の処理交渉と島々の調査を行うため、後藤猛太郎(政治家後藤象二郎の息子で御用係の英語通訳)と共に、イギリスの捕鯨船「エーダ」号に乗り込み、マーシャル諸島に向かった。帰国したのが明治18年1月18日、4カ月半の航海であった。その時の詳しい顛末が『南洋探検実記』の目録にある「巻一 マーシャル群島探検始末」に述べられている。「エーダ」号船長への聞き取り、寄港したマーシャル群島の紹介、日本人水夫の殺害事件の調査と尋問、犯人六人の拘束、島王との問答・談判、犯人への厳罰要求などの顛末が書かれている。

マーシャル島王との交渉、会見 

巻一の後半はマーシャル群島の地勢風俗及び物産について細かく紹介している。南進論者として、マーシャル群島の領有化に触れた箇所も数行ある。前半はスリルのある冒険・探偵物語を講談師が語っているような文章で展開され、後半は現地の風俗習慣、生活、動植物、気候、自然、地理、物産も語られる探検・調査記になっている。

巻二の「南洋巡航日誌」は、ハワイのオアフ島、南太平洋のサモワ島、ヒージー島(フィジー)について、地勢、風俗、言語、文化、物産などを書き留めている。

本書には巡航の経路図、挿絵として以下の図:独逸巡羅艇と海賊、島王との談判、島人の舞踊、船舶、葬儀、大蟹、食事の様子、捕鳥獣器、住宅と長橋、戦い、サモア王宮、島人の住宅、お墓、頭髪、古代の武器・神像、礼式、天主堂、木鼓、入墨、果物、木の葉、マングローブ、爬虫類、女性などがあり、各島の舞踊の挿絵が多めに掲載されている。

鈴木は本書の巻頭で、近年、伝聞、新聞・雑誌記事、外国の書物などを強引に混ぜ合わせて出版された南洋諸島の本が出版されているが、本書は現地を調査して目撃したものを書き留めた本であることを強く主張していた。

鈴木の三部作『南洋探検実記』『南洋巡航記』『南洋風物誌』は、南進論の世論形成に少なからず影響を与えたと言われている。後に海軍省に提出した鈴木の「経歴書」によると、計八回の航海歴があり、『南洋探検実記』はこのうちの第一航海(巻一)の日本人水夫殺害事件の糾明と島々の調査、第五航海(巻二)の調査、見聞紀行などにあたる。

戦前、鈴木は「大探検家」ともてはやされ、戦後もそのイメージが残っていた。南洋書誌に詳しい山口洋児も1988年には『南洋探検実記』について、「経勲の記述は、単に調査レポートの境を越え、民族学、動植物学、海洋、気象、地理などのレポートとしても詳細をきわめ、独特の絵入りで、日本初の南洋探検記として文句なしに優れたものである」と評価していた。ところが、1995年ミクロネシアの民族考古学に詳しい高山純が、『南洋の大探検家 鈴木経勲 その虚像と実像』( 三一書房)を公刊し、その中で『南洋探検実記』にある1884年マーシャル諸島探検に関する記述などを詳細に他の多くの資料と比較検討し、鈴木の創作部分、誤認、矛盾点などがかなりあることを逐一指摘した。そして、1884年マーシャル諸島での殺人事件の調査、犯人引き渡し交渉、島々の調査なども鈴木が作り上げたもの、すなわち「虚構」、机上の創作と手厳しく結論づけた。また、民族誌的な記述、挿絵も間違いが多すぎると指摘していた。現在の蓄積されたミクロネシア研究の成果から検証していた。

南海の大探検家鈴木経勲 その虚像と実像

鈴木は残念ながら人類学、現地調査の訓練、経験、研究などの専門知識や教養はあまり持ち合わせていなかったのは事実である。鈴木が「オセアニアの人類学的研究をおこなった」わけでもない。ただ、読者を楽しませ、南洋への関心を喚起させる術を持った著述家、探検家であったと言える。外務省の雇員時代は、一般事務の仕事から抜け出ようとする上昇志向があったことは推測できる。マーシャル群島行きは鈴木にとって、その絶好の機会であった。

 因みに、鈴木の学歴と外務省での役歴を「経歴書」より書き留めておく。昌平坂学問所講武所、横浜語学所(仏語)、沼津兵学校(研習生)。外務省御用掛(明治11年-明治19年)での仕事内容は、翻訳生見習、翻訳局勤務、記録局横文編輯掛、図画掛兼務、条約取調掛勤務、統計掛兼務、外務省使用電信符号編纂掛兼務、条約改正会議録編輯掛。

 高山の大著は当時八千円の定価、全398頁、参考文献は邦文、欧文併せて299点、膨大な数の文献であり、高山氏の執念と誠実な研究姿勢がうかがえる。ちなみに、私は比較的良い状態の本書を、350円で入手した。内容は、「前編 主として『南洋探検実記』に見られる記事の検証、後編 主として『南洋探検実記』以外に見られる記事の検証」に分かれている。高山は「あとがき」でこう述べている。

 

「探検実記」にはアメリカの漂流日記レイニア号の難破』の本と同様に、随所に探偵小説なみに読者をはらはらさせずにはおかない筋の展開が見られる。最初、この「探検実記」がこのレイニア号漂流記を種本としているとは気付かなかった時には、その類似が経勲のマーシャル諸島探検記をいっそう本物のように思わせた。しかしやがて経勲がこれらの本を利用して出かけもしなかったマーシャル諸島の南洋探検記を著したことが分かったのであった。(下線は筆者)

 

この結論に、高山の検証に敬意を払いながらも、複数の研究者(中島洋、中村茂生、山口洋児)から疑問が出されている。中島は「復命書」の検証を軽視したため、重要点を見落としていると、的確な論評を行っている。また、種本とする漂流日記レイニア号の難破』を鈴木が果たして読んでいたのか。復命書に添付された15種類の草木のスケッチが、現地に行かなくても日本での資料で描けたのか。疑問点を整理している。中村は「マーシャル行がなかったとするのは速断だ」と述べ、マーシャル諸島を訪問したかどうかは、「再考の余地がある」とも述べている。また、新しく発見した鈴木の「経歴書」(防衛研究所図書館保有)を丁寧に解説している。山口は東京帝室博物館所蔵品目録の中に、鈴木が持ち帰った物品が記載されていることを確認している。

私もとりわけ、井上外務卿から命令された出張、つまりマーシャル諸島への派遣が行われなかったとする結論には些か懐疑的である。私には、単純に次の疑問点が浮かんだ。

出張期間中の約四カ月半、外務省の御用係鈴木経勲は人知れずどこに雲隠れしていたのであろうか。「探検実記」には出発日には、沖神奈川県令と他の官員が見送り来ていて、狭い船室ではなく、甲板で出発の杯を交わしたとその様子が記されている。また、鈴木は両親とお祝いの杯を交わし、親戚、友人にも南洋諸島に「商用視察」のため、航行することを伝えている。これを全く無かったことにするのは難しいであろう。ここまで書いて、高山の大著を読み返してみると、後藤もマーシャル諸島には訪問しないで、どこかに潜んで、鈴木に頼んで「復命書」を書いて貰っていた推測していた。(下線は筆者) 高山説では、後藤は井上外卿から支給された船のチャーター金を使い込んでしまったので、出張の偽装工作を行ったとしている。

 外務省の御用係が、カラ出張、「復命書」(外交史料館保管)の偽造、提出など、これは当時でも服務規程違反であり、犯罪行為にあたる。「復命書」には関連書類として、帰国を知らせる電信送達紙、船長への報酬金・贈与金などに関する上申書、書簡なども添付されている。「復命書」には後藤猛太郎だけでなく、鈴木経勲の署名・捺印もある。なお、この「復命書」は天覧に附されている。現在、この「復命書」はデジタル(図・スケッチを含めて135枚)で公開されている。

[手に入れた鈴木、高山の本を十分読みこんだとは言えないが、疲れました。また、気が付いたところがあれば、記事にします。思うになかったことをあったことにする隠ぺい作業には、時間、労力、費用、心理的負担などが必要である。高山氏が推測する後藤・鈴木の隠ぺい工作は綻びなしで1995年まで知れることがなかったことになる。]

[補足]

 鈴木経勲、後藤猛太郎が外務省からの南洋諸島へ派遣された目的は、日本人水夫殺害事件の調査と外交処理のためだけでなく、マーシャル諸島の調査もその任務であった。島の概況調査はこの二人だけでは足りず、調査を補佐する要員はいなかったのかと気になっていたが、鈴木経勲、後藤猛太郎は竹田新太郎という若い給仕を雇っていた。身の回りの雑用、時には夜の見張り番の仕事、島王への給仕もしていたと「南洋探検実記」には記されていた。島王の協力によって、島王の二人の英語通訳が全島の探検調査に随行している。島々の概況については島王から、物産、風俗形容、慣習・民情などは、通訳を通して島民に質問して採録していた。採写、記録は鈴木が主に行ったようである。「エーダ」号の前の航海では、八名の日本人乗組員(池田吉松・清水梅吉・逸見栄作・川畑萬五郎・安藤寅吉・信崎常二郎・河野常一・伊藤留吉)が乗船していたが、今回のマーシャル諸島の航海に乗船していたかどうかはわからない。他の資料では、池田吉松が乗船していたようである。果たして、後藤・鈴木・竹田・池田の四名で島々の調査ができたのか、疑問が残る。さらに、帰国後、船長に特別の贈与金(銀貨50円)を払っているので、船長の協力も大きいものがあったことは言うまでもない。

参考文献

・明治期におけるミクロネシア関係文献 山口洋児 参考書誌研究第32号 1986.10

・クロネシア資料文献解題 山口洋児  ミクロネシア通巻95号 1995

・『南洋の大探検家 鈴木経勲 その虚像と実像』について 中島洋 太平洋学会会誌第66/67号 1995.6

・「経歴書」にみる鈴木経勲 中村茂生  史苑第57巻第2号 1997.3

外務省御用掛後藤猛太郎南洋マルシャル群島視察報告ノ件 (archives.go.jp)

冒険ダン吉になった男 森小弁 将口泰浩 産経新聞社 2011

(著者将口は小説であるとし、参考文献も明示されていないので、書かれた内容に信憑性がどこまであるかわからないが、後藤象二郎の書生となった森小弁が、息子猛太郎が南洋から持ち帰った椰子の実に関心を持ち、猛太郎からマーシャル諸島への事件調査の話しを聞く場面がある。詳しくはpp82-85参照。)