南洋移民とハリマオ その実像と虚像

 江戸幕府の初期に行われた朱印船貿易ベトナム、タイ、フィリピンとの交易が中心であったが、マラヤ半島にあったマラッカ王国との交易も少ないが行われていた。日本人町については確認されていない。

 明治に入り、外南洋であった東南アジアにも日本人の移民が行われた。シンガポールを含めたマラヤ各地にも日本人が働きに出かけていった。移民の形態としては、小売・行商の商業移民、農業移民、漁業移民、サービス業移民が多く、やがて商社、ゴム園経営、鉄鉱業ビジネス、海運、銀行など大手資本が経済活動を展開した。

マラヤ半島の東海岸はマレー人が人口の多数を占めていたが、この他、華僑、インド人も暮らしていた。ここに日本人も移民として移植した。今回の話題となるハリマオとして知られている谷豊は、1912年福岡県から家族でシンガポールを経由して、東海岸の街クアラ・トレンガヌに移り住んだ。トレンガヌ州は当時人口約18万人、華僑、マレー人、インド人がそれぞれ住みわけ、マレー人が多数派を占めていた。クアラ・トレンガヌの華僑街の端に三十人ほどの日本人が暮らしていた居住区があった。谷家は家族で理髪店とクリーニング店を経営した。この他、日本人の経営する薬局、歯科医院、洋服屋写真屋、雑貨店などもあった。満州事件以降、マラヤでも華僑の反日行動高まり、日貨排斥運動や日本人や親日華僑商人への襲撃事件が起こった。クアラ・トレンガヌの日本人商店も襲われ、その中に谷理髪店もあり、家にいた末の妹が惨殺されてしまった。日本でこの悲報を聞いた豊は、妹の仇討ちのためにマラヤへ舞い戻っていった。これ以降、親との連絡を絶った豊は回教徒となり、モハマド・アリ・ビン・アブドーラと名乗り、華僑、イギリス人の金持ちを襲う盗賊団(30~50名)の首領となった。仲間からはハリマオ(虎)と呼ばれていた。賞金をかけられ、お尋ね者となったハリマオはマラヤ・タイ領国境近くの村に潜伏していた。このハリマオに着目したのがバンコク駐在武官の田村浩大佐であり、マラヤ進出を想定して「ハリマオ」工作を準備していた。ハリマオがイスラム教徒であり、マレー語も堪能で、現地の地理に通じ、人脈もあることに着目して、活用しょうとした。藤原少佐率いるF機関がハリマオの説得にあたった。ハリマオの説得に大きな力を果たしたのが、*神本利夫機関員であった。ハリマオは神本を信頼し、日本の南進作戦に協力した。ハリマオは南進する日本軍の先導的役割を果たし、ペラク川のダム確保作戦で活躍した功績があった。ジャングルを走破したハリマオはマラリヤに罹り、1942.3.17、シンガポールの病院で病死した。享年30歳。マレー人の仲間に見送られて病院近くのイスラム墓地へ埋葬された。参謀本部は軍属谷豊の死を記者会見で発表し、すでに帰国していた家族は、音信不通であった豊の消息を知ることになった。

亡くなった後、マスコミの寵児となった豊はハリマオとして英雄伝説化の中で名前を記憶されるようになった。イギリス植民地、悪徳華僑と戦う日本青年とマレー人青年の活躍が織り込まれ、最後はマレー半島攻略作戦に協力し、お国のために尽くして病死する英雄像が描かれるようになった。

 ハリマオの虚像について、簡単にまとめてみる。

  • 忠君愛国青年、親孝行 ← 盗賊の名誉挽回 日本人の強調
  • 部下三千人→対英闘争、南進に協力

マレー戦線で大活躍→病死→悲劇のヒーロー←イメージの拡大→英雄伝説←メディアの誇張  

これには報道機関の果たした役割も大きい。ハリマオの死亡後、新聞、雑誌、劇画、紙芝居、浪曲、歌謡曲などで、その忠君愛国の英雄像が拡大され、映画『マライの虎』までが作られた。

ハリマオの実像はどうであったか。

  • マレーの文化と日本の文化を持った青年像→回教徒でマレー語が日本語より堪能。
  • 盗賊団の首領部下30~50名ぐらい。マレー人を中心にインド人、タイ人、華僑などで構成。
  • 家族思い、義侠心、マレー人の信望⇔忠君愛国青年とはズレがある。
  • F機関の南進工作に協力、日本軍のマレー半島攻略の先導者となる。
  • 作戦には部下とともに協力、信義を貫く。日本軍進行の先駆けの役割。諜報と宣撫に従事。華々しい武功があったわけではない。

F機関の指導者藤原少佐は谷豊に対する思い入れが強く、感謝の意味でハリマオ像を美談仕立てで誇張したことは確かである。一方、藤原少佐は入院している豊を見舞い、豊を軍属(通訳官)としたことを伝えた。また残された家族に遺族年金、叙勲の手配までした。

戦後、ハリマオは忘れられた存在であったが、昭和30年代にテレビ・マンガのヒーローとしてのハリマオが復活した。

1)第一次ブーム(昭和30年代)

テレビが普及しだし、日本商品の海外での評価が高まり、経済成長の中で、ブームが起きた。日本経済新聞夕刊(1955~1957)に少年小説「魔の城」(山田克朗)が連載された。テレビでは少年向けのヒーローを登場させた作品が次々と作られ、少年たちを引き付けた。なかでも『快傑ハリマオ』(昭和35年~36年、全5部65話製作)は「魔の城」を原作としてドラマ化された。この作品の最初の舞台は、戦争前のジャワ島。現地の人々のために、占領軍、悪徳商人、秘密結社と闘う日本人を描いた。ハリマオの正体は海軍武官府の海軍中尉大友道夫という設定であった。5シリーズ制作されたが、第4シリーズの南蒙古を除いて、東南アジアが主な舞台であった。現在では全作品がDVD化されて、鑑賞することができる。

漫画では石ノ森章太郎が『快傑ハリマオ』を少年マガジンに連載(昭和35年~36年)した。また、堀江卓も『少年ハリマオ」(全5冊 少年クラブ 昭和35年)を出版した。

2)第二次ブーム(1980年代)

 80年代に入り、ハリマオ像の再考、実像を求める動きがでた。小説、新聞、雑誌、ノンフィクション作品、映画などで新しいハリマオが登場した。

1.『ハリマオ』(角川書店) 伴野 朗 1982年

朝日新聞の外報部記者。推理作家として「ハリマオ」を冒険活劇小説にリメイクした。

豊富な現地取材、調査、現代史を踏まえて創作され、小説の時代背景の正確さや人物像の鮮明さが特徴である。

2.朝日新聞 朝日新聞の記者が書いた二本の記事。

・「なぜか人気『ハリマオ』(1985 .4.11)

・「捜しあてたあの『ハリマオ』がいた町」(1988 .6.13)

3.『マレーの虎 ハリマオ伝説』(新潮社 1988年 中野不二男 ノンフィクション作家) 

谷豊の実像を追うために家族、民間人、F機関の旧軍人への聞き取り調査を行った。

マレーの虎 ハリマオ伝説 中野不二男 新潮社
  • 帰国子女としての谷豊②アイデンティとは何か→日本人論③F機関の持つ意味 ④日本軍の戦略論・情報戦の欠如⑤南洋の民族、言語、地理などの研究、理解不足などを論じた。この本で中野氏は英雄でもなく、悲劇の主人公でもなく、ふたつの文化を生きた人物として、谷豊像を描き出している。

「だが、日本のその時代は、豊の生き方を根底から否定した。日本人ならば・・という言葉は、彼の価値観を揺るがし、アイデンティティをもくつがえそうとしていた。その、ただひとことで。そして、豊は ″日本人″になった。海外に住む日本人として厳しい生き方を求めた父浦吉とはべつの意昧で、日本人以上に日本人になった。いや、なろうとしたのである。この瞬間こそ、″ハリマオ″が生まれ、伝説がはじまっていたのだ。豊は開戦の12月8日からシンガポールで息をひきとる翌年3月17日までの99日間、″日本人″として全力で生きぬいた。時代につきつけられた要求に、かれが見せた一瞬の証明だった。証明が終わり、すべてが終わったとき、かれはふたたび自分の文化へともどっていった。しかし、″ハリマオ″は、すでにひとり歩きをはじめていたのだ。」(中野不二男

 

  1. 映画『ハリマオ』和田勉監督 陣内孝則主演 1989年  松竹製作

 戦前の映画「マライの虎」、TV「快傑ハリマオ」を基に、中野不二男氏の著書を参考にリメイクしている。実像と虚像を都合よくつなぎあわせたため、制作者の意図が空回りし、作品としての評価はあまり高くなかった。伴野朗氏の小説を映画化したほうが成功したかと思う。

  1. 伴野朗、中野不二男和田勉陣内孝則石ノ森章太郎、安井尚志などが寄稿したハリマオを特集した雑誌が刊行(銀星倶楽部10号「ハリマオ伝説」1989.6)された。

 

3)2000年代のハリマオ伝説

2000年代になって、ハリマオ伝説は最終章を迎えることになった。産経新聞は「日本人の足跡 谷豊」(2001年5月15~20日) という記事を連載した。ハリマオが亡くなって六十年の節目に、ハリマオ伝説の完結版として、静岡大学の山本節教授の著書『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』が出版(大修館書店 2002年)され、NHKBSでも映像として放映された。山本教授(2011年逝去)は「英雄神話伝承」の研究者で、10年間にわたり、実に多くのハリマオ関係者や現地を訪問し、中野不二男氏とは異なる視点で研究を進め、ハリマオの実像にさらに近づいた。聞き取りした内外の関係者の多くは、すでに鬼籍に入り、これが最後の調査であったといえる。山本氏の真摯な研究姿勢と研究成果に敬服するばかりである。

ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実 山本節 大修館書店

山本氏は本書の中で次のようにまとめている。

認識は彼我の関係を離れてはあり得ない。くさぐさの資料が語るハリマオの姿とは、実はハリマオと接した人々が、自己との関わりの中で、それぞれの内なる価値や審美の鏡に照らしつつ醸成した、その人その人の「ハリマオ伝承」なのではあるまいか。真実とは、各自が抱く幻の中にしか存在し得ない。つまり筆者が集積した「ハリマオの真実」とは、いわば百人百様の「ハリマオの幻想」なのだ。 ハリマオ神話を脱し、その実像の追求を志した伝承研究者の探索の果てが、新たなハリマオ神話への逢着であったという、皮肉な逆説がここにある」(山本 2002)

 

追記

*神本利夫機関員について

ハリマオへの説得工作を行ったF機関の神本利夫の生涯とハリマオとの関係については、土生良樹氏の『神本利夫とマレーのハリマオ』(展転社 1996)が参考になる。

神本利夫とマレーのハリマオ 土生良樹 展転社