中国政治史研究者渡辺龍策先生への思い出

渡辺龍策先生との出会いは、筆者が20代中ごろのことである。長兄を介して、先生と知り合うことができた。先生とは栄にあるホテルの地下のラウンジバーでお会いして、よく話をした。このバーへ、先生はほぼ毎日通っていた。

 先生は戦前・戦後初期までに通算25年の中国滞在歴で、そこで知り合った人々との交流談や中国政治社会、中国の食文化、演劇、文学、歴史、華北の街々、新刊書の構想などに話を咲かせた。袁世凱、伊達順之助、小日向白郎、川島芳子、村上知行などの名前も話題に登場した。先生の御尊父渡辺龍聖氏は東京音楽学校校長、東京高等師範学校教授、小樽高等商業学校校長、名古屋高等商業学校校長などを歴任し、後に袁世凱の学事顧問として北京に滞在した。このため、幼年期を北京で過ごした。

 先生は痩せて長身で、話し方も穏やかで温厚な紳士であった。戦後、中京大学の教員を務めながら、馬賊の研究を推し進め、中国政治史の新しい研究領域を切り開いた。アウトサイダーであった馬賊(武装自衛集団)に光を当て、歴史上の功罪を明らかにした。この方面での成果としては、ベストセラーとなった『馬賊 日中戦争史の側面』(中公新書)がある。

馬賊 中公新書


この他『大陸浪人』(番町書房)、『馬賊頭目列伝』(秀英書房)、『女探 日中スパイ戦史の断面』(ハヤカワ・ライブラリ)、『馬賊夕陽に立つ』(徳間書店)、『馬賊社会誌』(秀英書房)、『近代日中政治交渉史』(雄山閣)、『近代日中民衆交流外史』(雄山閣)などがある。この他、『日本と中国の百年』、『万里の長城』、『楊貴妃後伝』、『秦の始皇帝99の謎』、『不老強精食』などを執筆している。

 戦前、渡辺龍策氏は東大を卒業した後、三井物産大連支店、華北軍司令部の嘱託、華北総合調査研究所理事などを務めた。数年ではあるが教育出版社「南光社」を経営したことがある。

 先生と最後にお目にかかったのは、山口県下関市の料亭である。先生の著書『川島芳子 その生涯』を原作として、川島芳子の生涯が舞台化され、1985年9月三越劇場で上演されることになったお話をうかがった。公演題目は『見果てぬ滄海』、主演は松あきら、作・演出は榎本滋民、監修渡辺龍策であった。

川島芳子 見果てぬ滄海 徳間文庫


渡辺龍策先生は公演パンフレットに「川島芳子という女性は、歴史の落し子として、このまま忘却の彼方に押しやってしまうにはしのびえない女性のようである。彼女は多くの人たちのージに育まれて、なおも歴史の中に生きつづけてゆくだろう」と記していた。

見果てぬ滄海 舞台パンフレット


残念ながら、筆者はこの舞台を鑑賞することができなかった。この『見果てぬ滄海』は川島芳子を主人公として、戦後初めて舞台化された作品である。

舞台 見果てぬ滄海 チラシ


三島由紀夫が主宰した劇団浪漫劇場では、「堂本正樹作 川島芳子 三幕」の上演予定を企画していたが、1970年の「三島事件」によって、劇団が解散し、その企画は消滅してしまったという。なお、戦前は1932年に『男装の麗人』が初代水谷八重子主演で舞台化されている。

上演三年後、先生はひっそりと旅立ってしまった。享年85歳。名著『馬賊』とともに先生への思い出は確かに残っている。