南洋群島への夢:冒険ダン吉と森小弁
『冒険ダン吉』は子どものころ復刻版を読んだ記憶がある。
この他『ロビンソン・クルーソー漂流記』『宝島』『十五少年漂流記』『少年ケニア』などを熱心に読んだ記憶もある。
さて、『冒険ダン吉』は、昭和8年から昭和1 4年まで、『少年倶楽部』に連載された漫画付絵物語である。南洋のある島に漂着した少年ダン吉が参謀役のねずみのカリ公の助けを受け、様々な困難と闘いながら王として、原住民のための国作り(貨幣、商店、学校、病院、郵便局、交通・輸送などの整備、軍隊の設置、近隣の島々への探検、他の部族との接触・戦い、侵入者との戦い)をするお話である。この作品は第一次世界大戦後、南洋諸島が日本の委任統治領となり、南進論ブームが盛上がった時代背景のなかで、子供たちに大歓迎された。
産経新聞出版 将口泰浩 2011
そして、森小弁を通して、日本人の南洋開拓の歴史に興味を持った。巷では「冒険ダン吉」は森小弁のモデルといわれるが、作者の島田啓三にとって、ダン吉は自分が少年時代から持ち続けた夢の展開であり、空想を土台にした「ダン吉島」を空想の世界から現実化する試みであり、作品には「滔々たる開拓精神」が流れていた。(『冒険ダン吉』(2) 講談社刊 少年倶楽部文庫 「『冒険ダン吉』のこと」(pp186-188)
徳川幕府による長い鎖国政策も終わり、明治新政府成立以降、日本が再び海外に飛躍
する時代が始まった。新天地を求めて、日本人は、無人島の開拓、南洋貿易活動、出稼
ぎ移民などの移動形態で海外に出かけて行った。その中に土佐出身の旧郷士の次男森小
弁がいた。森小弁は青少年期に自由民権運動に参加し、ある事件で入獄した。出獄した
後は土佐出身の政治家後藤象二郎の書生となり、東京専門学校に在籍した。後藤象二郎
の息子猛太郎が南洋諸島から持ち帰ったヤシの実に興味を持ち、南洋諸島への関心を深
めていった。明治20年代、「南進論」が活発化し、志賀重昻、服部徹、菅沼貞風などの
論者が著作を発表していた。森小弁も少なからず、彼らの「南進論」の影響を受けてい
た。
明治24年(1891年)、森小弁は南洋貿易を営む「一屋商会」の社員として、91トンの
帆船「天祐丸」に仲間と乗りこみ、南洋諸島での交易活動を求めて旅立った。森小弁は
チューク諸島(トラック諸島)のウエノ島に五年ほど滞在し、現地での気候、風俗習慣
と苦闘しながら、交易事業の発展に努めた。やがて現地の酋長の信頼を得て、彼の娘
と結婚した。そして、酋長の後を継いだ。11人の子供に恵まれ、孫は100人、ひ孫
350人余を数え、ここから現在に至るモリファミリーが形成されていく。モリファミ
リーからはミクロネシア連邦の大統領を輩出し、その血縁ネットワークは政、官、財
などに拡がっている。他の定住した日本人(白井孫平、相澤庄太郎、中山正実など)の
子孫を入れると現在、「日系人」はミクロネシア地域の約20%に達するといわれてい
る。
森小弁と同時期に、やはり南洋進出を目指した日本人として青柳徳四郎が知られ
ている。
明治23年(1890年)、70トンの帆船に乗って、サイパン、グアム、トラックなどを訪れている。目的はビジネス市場の開拓であった。残念ながら、二回目の航海時(明治25年)パラオで遭難して亡くなった。青柳徳四郎は「元祖ビジネスマン」と言われている。無人島の開拓、調査、冒険については、また別の機会に詳しく述べたいと思う。
参考文献
・南と北の島物語 産経新聞掲載 2023.11.1 22023.11.12 2024.1.3 2024.2.14
伊藤若冲の弟白歳の作品
今日は久しぶりに四条の錦市場と新京極通りに出かけた。ここから歩いて5分ほどの裏寺町通りにある宝蔵寺の寺宝展を見学した。
宝蔵寺は江戸中期に活躍した絵師伊藤若冲家の菩提寺として知られている。昨日から今月12日まで寺宝展が開かれ、若冲、弟の白歳、若冲の弟子たちの作品15点が展示されている。なかでも白歳の絵画「雪中雄鶏図」が初公開されている。
若冲の弟白歳は若冲に代わって青果商を継いだ。若冲から絵を習い、若冲の筆致には及ばないが、素直な作品を描いている。作品は写真撮影禁止なので、お見せできないが、関心のある方は、ぜひ直接鑑賞してしてほしい。京都新聞の記事には、この絵について、こう書かれている。「『雪中雄鶏図』は縦122・6センチ、横48・9センチで、雪が積もるナンテンと羽を広げた雄鶏を描く。丸く翻った雄鶏の尾羽や、羽の向こうからくちばし、とさかをのぞかせるポーズに若冲の指導の跡がうかがえる。一方、線の硬さや雪の表現には若冲におよばない「素人」らしさがのぞくという。」(京都新聞2024年2月5日) 白歳のその他の作品「羅漢図」「南瓜雄鶏図」「牛頭天王図」も展示されている。
中国政治史研究者渡辺龍策先生への思い出
渡辺龍策先生との出会いは、筆者が20代中ごろのことである。長兄を介して、先生と知り合うことができた。先生とは栄にあるホテルの地下のラウンジバーでお会いして、よく話をした。このバーへ、先生はほぼ毎日通っていた。
先生は戦前・戦後初期までに通算25年の中国滞在歴で、そこで知り合った人々との交流談や中国政治社会、中国の食文化、演劇、文学、歴史、華北の街々、新刊書の構想などに話を咲かせた。袁世凱、伊達順之助、小日向白郎、川島芳子、村上知行などの名前も話題に登場した。先生の御尊父渡辺龍聖氏は東京音楽学校校長、東京高等師範学校教授、小樽高等商業学校校長、名古屋高等商業学校校長などを歴任し、後に袁世凱の学事顧問として北京に滞在した。このため、幼年期を北京で過ごした。
先生は痩せて長身で、話し方も穏やかで温厚な紳士であった。戦後、中京大学の教員を務めながら、馬賊の研究を推し進め、中国政治史の新しい研究領域を切り開いた。アウトサイダーであった馬賊(武装自衛集団)に光を当て、歴史上の功罪を明らかにした。この方面での成果としては、ベストセラーとなった『馬賊 日中戦争史の側面』(中公新書)がある。
この他『大陸浪人』(番町書房)、『馬賊頭目列伝』(秀英書房)、『女探 日中スパイ戦史の断面』(ハヤカワ・ライブラリ)、『馬賊夕陽に立つ』(徳間書店)、『馬賊社会誌』(秀英書房)、『近代日中政治交渉史』(雄山閣)、『近代日中民衆交流外史』(雄山閣)などがある。この他、『日本と中国の百年』、『万里の長城』、『楊貴妃後伝』、『秦の始皇帝99の謎』、『不老強精食』などを執筆している。
戦前、渡辺龍策氏は東大を卒業した後、三井物産大連支店、華北軍司令部の嘱託、華北総合調査研究所理事などを務めた。数年ではあるが教育出版社「南光社」を経営したことがある。
先生と最後にお目にかかったのは、山口県下関市の料亭である。先生の著書『川島芳子 その生涯』を原作として、川島芳子の生涯が舞台化され、1985年9月三越劇場で上演されることになったお話をうかがった。公演題目は『見果てぬ滄海』、主演は松あきら、作・演出は榎本滋民、監修渡辺龍策であった。
渡辺龍策先生は公演パンフレットに「川島芳子という女性は、歴史の落し子として、このまま忘却の彼方に押しやってしまうにはしのびえない女性のようである。彼女は多くの人たちのージに育まれて、なおも歴史の中に生きつづけてゆくだろう」と記していた。
残念ながら、筆者はこの舞台を鑑賞することができなかった。この『見果てぬ滄海』は川島芳子を主人公として、戦後初めて舞台化された作品である。
三島由紀夫が主宰した劇団浪漫劇場では、「堂本正樹作 川島芳子 三幕」の上演予定を企画していたが、1970年の「三島事件」によって、劇団が解散し、その企画は消滅してしまったという。なお、戦前は1932年に『男装の麗人』が初代水谷八重子主演で舞台化されている。
上演三年後、先生はひっそりと旅立ってしまった。享年85歳。名著『馬賊』とともに先生への思い出は確かに残っている。
マレーシア華人の言語環境と言語選択
東南アジアを旅する際、必ずと言っていいほど出会うのがチャイナタウンであり、そこには漢字の看板がたくさん掲げられている。ここで生活する華僑または華人と呼ばれる人々は現地の言葉を含む2言語またはそれ以上の言語を巧みに操っている。その言語使用状況は華人の居住国の言語・教育政策、移民時期、華人の人口比率、教育程度、職業や卒業校のタイプ、年令、家庭の使用言語によって異なる。例えば、現地化の進んでいるタイ、インドネシア、フィリピンでは、それぞれタイ語、インドネシア語、タガログ語が第一言語になるし、第二言語には華語または華語方言(潮州語、福建語など)が使われることがある。高学歴者の家庭では、時として英語などの旧宗主国の言語も使われる。また、移民第一世代では上記の第一言語と第二言語以下が入れ替わることもある。華語の普及しているマレーシアの華人は、華語、マレー語、英語、華語方言(閩南語、広東語、客家語、潮州語、海南語、福州語など)を異なる言語空間で使い分け、第一言語と第二言語もそれぞれ異なっている。そのため、華人の言語は複雑かつ可変的である。隣国シンガポールの華人社会は福建省出身者が植民地時代から多かった。1990年の華人の方言集団ごとの人口統計では、福建人が42.2%、潮州人が21.9%、広東人が15.2%、客家人が7.3%、海南人が7.0%、福州人が1.7%、興化人が0.9%、福清人が0.6%であった。標準華語が普及していなかった時代は、話者の多い福建語(閩南語)が華人社会の共通語として使われていた。
次に、マレーシアの各地域(①マラッカ、②イポー、③クアラルンプール、④ペナン)の華人社会の言語使用について、紹介していきたい。これら四地域のチャイナタウンや独立華文中学を何度も訪問したことがある。
①植民地時代、マラッカは海峡都市として栄えたが、現在は観光都市として知られている。ポルトガル、オランダの統治時代に、福建省厦門、泉州、漳州などの地域からの移民が多く入植した。そのため、閩南語が華僑・華人の共通語として用いられた。
②イポーは錫鉱山の採掘で発展した都市で、錫鉱山の労働者として、広東人、客家人が多く移住した。その結果、広東語、客家語がこの地域では一般的に使われてた。市街地では広東語、周辺集落では客家語が多く使われた。。
③クアラルンプールは、移民である華人が築いた大都市である。19世紀中ごろ、客家人の葉亜来が錫鉱山の労働者として採掘に従事し、やがて華人集団の指導者になり、クアラルンプールの都市建設に大きく貢献した。1947年の統計では市内では広東人が49%、客家人が18%、郊外では広東人が37%、客家人が29%を占めていた。1970年の統計では広東人4%、客家人28.7%となった。市内ではチャイナタウンだけでなく、華人同士の交流でも、広東語が優位になっている。
④ペナン島は観光地として知られ、華人、マレー人、インド人が暮らしている。なかでも華人の人口が最も多く、華人の中では、福建人、広東人が多く、1970年の統計では、福建人9%、広東人19.4%、潮州人12.6%であった。当然ながら、福建語が言語空間内で、絶対的な優位性を持っている。
マレーシアでは華文教育が他の東南アジア諸国より普及しているので、標準華語も多くの華人が使用している。華人は公立の国民型華文小学校から私立の中学・高校、そしてカレッジ(学院)に至るまでの教育機関で、華文を学んでいる。
参考文献
・東南アジアのチャイナタウン 山下清海著 古今書院 1987
・方言群認同 麥留芳 中央研究院民族研究所 1985
ちばてつやの「風のように」について
以前の日記で、ちばてつやの『わたしの金子みすゞ』について、触れたことがある。最近、『風のように』という短編作品が2022年に久志本出版から刊行されていることを知った。「風のように」は1969年に『週刊少女フレンド』に掲載された作品である。早速、このコミック本を入手して読んだ。
その後、この作品が映画化されていることを知った。このアニメ作品は2016年に、アニメ制作会社のエクラアニマルによって制作・公開された『風のように』(42分)という短編映画である。優れたスタッフ、キャストが協力して作り上げた芸術作品である。
山あいの村に祖母と暮らす少女チヨと、花を求めて全国を旅する養蜂家の両親を事故で亡くした少年三平との情感溢れる交流を描き、戦後初期の山村の風景や自然が鮮やかに表見されている。どんな困難にも真正面からぶつかって生きようとする三平、そんな三平を頑なに信じて手助けするチヨ。山村の子供たちや大人たちとの交流も物語に絡み、ミツバチの大群の飛来がキーワードとなり、農村の原風景をバックに話が次々と展開していく。
映画には原作にはなかった場面が所々に挿入され、新たな映画作品として仕上がっている。また、エンディングも原作とは異なり、余韻を残し、想像力をかきたてる形で結ばれている。ミツバチとともに消えた三平の帰りを待つチヨ、10年後のチヨと三平が開墾し、チヨが育てた花畑がクローズアップされて映画は幕を閉じる。
この映画はDVDとして発売されており、原作と一緒に、ぜひ鑑賞してほしい作品である。映画に流れる音楽、主題歌、効果音が作品をより豊かに彩っている。音楽はサウンドトラックとして、CDにもなっている。
シンガポールの詩人王潤華と南洋郷土への愛着
王潤華はシンガポールを代表する詩人の一人であるが、中国文学、馬華文学(シンガポール・マレーシア華文文学)研究者としても知られ、文学研究書だけでなく、詩集、散文集の文学作品の著作も多数ある。南洋大学人文社会研究所所長、シンガポール国立大学教授・中文系主任、シンガポール作家協会主席、台湾元智大学教授、マレーシア南方大学学院副校長などを歴任。マレーシア北部ペラ州のテモ出身。1941年生まれ、移民三世。シンガポール公民。ペラ州にある金保培元中学から台湾国立政治大学へ進学、卒業。アメリカのウィスコンシン大学大学院で博士号取得。
王潤華の初期の頃の作品『南洋郷土集』(1981年)は、私の好きな作品のひとつである。著者は山間の錫鉱山、ゴム園近辺の客家人が多く住む村落で生まれ、育った。祖父は広東省従化からの移民で、小規模なゴム園を経営していた。小さい頃から、熱帯雨林の自然が身近にあり、熱帯雨林への愛着が育まれていった。この作品集は、散文集と詩集に分かれているが、著者の南洋郷土への観察や思いを綴っている。つまり、散文と詩という二つの文学形式で、南洋の郷土というひとつのテーマを描いている。
散文集では題材をマラヤのゴム園、南洋の果物、シンガポールの南洋大学庭園の蟻、湿気、マレー半島東海岸の原始林の樹木、原始林で生息する蜘蛛、ベタまたはトウギョ(闘魚)と呼ばれる熱帯魚などに取っている。マレーシアの密林にはハリマオと呼ばれるマレー虎が数は少ないが、約500頭生息している。
シンガポールでは独立後、都市建設が急激に推し進められ、1980年頃はゴムの樹がほぼ完全に消滅してしまった。マレーシアでも開発による原始林の縮小は、野草や野生の生き物(昆虫・鳥・小動物など)の減少をもたらしている。
詩集では南洋の野草、樹木の葉、熱帯の果物(ドリアン、マンゴスチン、ランブータン、ジャックフルーツ、スイカヅラ、パイナップル、その他)、南洋の風物記(吹き矢、投網、錫鉱山、廃坑した錫鉱山)、影絵人形劇、鳥(山雀、鷹、梟など)を題材に取り、詩を書いている。
王潤華は本書の序文で次のように述べていた。
「例えばゴムの樹は我々華人と同じように,同一時期にイギリス人によって,この南洋の地に移植された。その後,下に向かっては泥のなかに根を張り、上に向かっては花開き、実を結んだ。私はマレーシアペラ州の第三世代のゴムの樹である。熱帯の果物は天性の固い皮に覆われ、苦い液体で自己の成長を守りながら、天敵からの害を防いでいる。同様に、もし我々がいかなる困難にも耐えるという美徳を持ち合わせていなかったならば、灼熱の原始林のなかでは、楽園ひとつ開拓できなかったであろう。熱帯の果物は成熟が早く、その香りもしばしば強烈である。これはまさに熱帯に生きる人間の早熟で、おっとりした情熱的な個性を象徴している。」
王潤華のこれ以後、消えゆく熱帯雨林、熱帯の動植物、植民地時代、マレー農村、熱帯の風土などを詩と散文で描き続けている。この系統の作品には『熱帯雨林与殖民地』(1999年)、『地球村神話』(1999年) などがあげられる。
『赤穂義士討入り従軍記「佐藤條右衛門覚書」』と武林唯七
先日、探し求めていた本を「日本の古本屋」を通して、やっと入手できた。探していた本とは『赤穂義士討入り従軍記「佐藤條右衛門覚書」』(中央義士会出版・初版平成14年、二刷平成25年)である。
この本は古本市場になかなか出回らなかった。仕方がないので、必要な個所は図書館でコピーしていたが、やはり欲しい本は手元に置いておきたいものである。本が届き、改めて最後まで一気呵成に読んだ。
この本の構成は次のようになっている。
目次
改定版発刊のいきさつ 中島康夫
改定版発刊によせて 浅野長
刊行によせて 長井寛三
刊行によせて 佐藤紘
奇跡のような発見 秋元藍
第一編
「赤穂義士討入り従軍記」鈴木勇
第二編 次のいきさつ 中島康夫
「佐藤一敞覚書」 三扶誠五郎
第三編 発見のいきさつ 中島康夫
「浅野内匠頭御家士敵一件」佐藤條右衛門
第四編 「原書」の解説 中島康夫
内容から読み取れる新事実
- 全体的には
- 十四日暮過ぎより彌兵衛宅へ集まった
- 兵法の師堀内源左衛門は弟と弟子埼玉某と彌兵衛宅へ来た
- 津軽越州公の家来大石郷右衛門の動き
- 自分(條右衛門)は勝手の方で青竹を挽き割っていた
- 村松喜兵衛は一首を認めて
- 彌兵衛は戒名を書いていた
- 討ち入りに遅れた彌兵衛
- 土地の夜回り、川岸に行く魚屋が通る
- 泉岳寺の門前は
- 泉岳寺から仙石邸へ移動
佐藤條右衛門の出自 宮澤信明
あとがき 中島康夫
参考文献
スタッフ
本誌刊行に係る特別協力者
吉良邸討ち入り前夜から討入り後の赤穂義士の動向を伝えたのが、「佐藤條右衛門覚書」である。この覚書の存在は前から知られていたが、平成14年の発刊で、資料的価値が着目されるようになった。、本書で扱っている「覚書」は、真筆ではなく、新発田市の郷土史家三扶誠五郎が真筆から写しとったものである。真筆は未公開になっている。
討入りを見届けた人は、親類縁者、使用人、医者、家僕、剣術師範、そして堀部安兵衛の従弟佐藤條右衛門などである。佐藤條右衛門が詳細に討入り前後の様子を伝えていて、映画やTVドラマとは違う事実が描かれている。彌兵衛が討入りに遅刻し、佐藤條右衛門に助けられ、門を越えて吉良邸に入ったこと、夜回り、近隣の人々も討入りを知っていたこと、吉良邸から逃げ出した家来の様子、笛が鳴り、吉良が討ち取られたこと、点呼が行われ、吉良邸引き上げが伝わってきたこと、吉良邸の外での義士たちとの会話、挨拶、泉岳寺までの引き上げの様子、泉岳寺前の様子などが書き留められている。
私が関心を持っている武林唯七も「覚書」に登場している。唯七は剛直の人、不義・不正を憎む人であったと言われる。物置に隠れた吉良上野介に最初の一太刀を浴びせ、絶命させた義士こそが、武林唯七であった。
絶命した吉良の首を取ったのは、吉良への一番槍を突いた間十次郎であったが、あまりの功名のパフォーマンスに、唯七は反り返った自分の刀を條右衛門に見せ、「これで吉良を討ち取った。しかし、暗いところであったので、物に打ち当たり、刀が反り返ってしまい、鞘に入り難くなった。このようなことは後になっていろいろいう人も出てくるので、よく聞いておいてくれまいか、と言っていた」と記されている。唯七の吉良を絶命させたという主張は『江赤見聞記』巻四、『忠誠後鑑録』或説上にも見える。討入り前の功の深浅を問わないという定めから外れた間十次郎の態度に、唯七がかなり腹を立てていたことがうかがえる。『忠誠後鑑録』或説上では、「貴殿は、我らが討ち伏した死人の首を取ったが、そのことを無遠慮に言いふらすことは、聞くに堪えない」と怒り声をあげていたとの記述もある。
唯七と十次郎との功名争いによる確執との見方もあるが、私には、唯七の剛直、直情な性格が表われた事象のように思われる。「覚書」には、「刀の鯉口は二寸許りもぬけて居り、唯七も顔に少々疵を負っていた。堀内(※安兵衛の剣術師範)、埼玉(※堀内の弟子)二人に向かっても何彼と噺しをし、その上これを頼むと言って守袋を渡された」という唯七についての記述もある。
「覚書」を書き留めた佐藤條右衛門について、第四編の宮澤信明著「佐藤條右衛門の出自」に詳しい。安兵衛の従弟であった條右衛門は義士の切腹後、村上藩間部家に佐藤覚兵衛と改名し、仕官した。間部家の転封先鯖江藩では、町奉行を務めた。享保19年(1734年)の『藩庁日記』には、佐藤覚兵衛の名前があり、当時65歳と推測されている。